ボリュームを一つ上げる 〜THE ORAL CIGARETTES〜
SNSに書いてある誰に向けられているのか分からない言葉が自分に向けられているものなんじゃないかと不安になるし、人からの言葉の意味を必要以上に考えてしまうし、友達から送られてきた何気ない連絡の返信を考えすぎてしまい返せなくなることもある。
なんでも考えすぎてしまう性格は僕のコンプレックスだ。
高校生時代はその性格のせいで頭痛と腹痛が止まらなくなって何度も授業中に保健室に走ったのは苦い思い出。保健室の先生が綺麗な人だったのでドキドキしてしまい、余計に頭痛がひどくなったこともあった気がする。
誰も幸せになることはない暗い話から始めてしまったのには理由がある。
最近出版されたTHE ORAL CIGARETTESのボーカル山中拓也さん著書の「他がままに生かされて」を読んで一つのワードが頭の中に残った。
山中さんは本の随所でコンプレックスについて綴っている。
「コンプレックスは個性。」
僕は頭の中にこびりついたその言葉を何日にも渡って考えてしまった。
素直に分かるなぁとはならなかった。だって、長年向き合ってきた自分の中の嫌いな部分だ。個性と言い換える為には、それなりの理由が必要なんじゃないだろうか?
コンプレックスは開かずの扉のようなものだと思う。鎖で何重にも覆われていて大きな鍵穴の錠でガッチリと止められている。不気味な存在だからできるだけ開けたくない。
個性という言葉はどう考えても正の要素が強い言葉だ。その人だけにしかない強い部分、光った部分にフォーカスが向けられている。
負の要素だらけのコンプレックスとは相反するものだ。
それなのになぜか山中さんが言うこの言葉には妙に説得力を感じてしまった。この本を読んで感じたバンドの魅力の正体。それは、彼らの音楽がファンの心に響く理由は山中さんのコンプレックスにあるのかもしれないということ。
もっと言うと、コンプレックスを武器にしてフロントに立ち続ける姿勢なんじゃないかということだ。
山中さんは自分の低い声がコンプレックスでずっと嫌いで仕方がなかったと綴っている。
僕はむしろその低くて色気のある歌声がかっこいいと思っていたのでコンプレックスだと思っていたことに驚いた。
それが事実なら山中さんは相当根気のある努力人だと思う。
嫌いで嫌いで仕方ない声なのにも関わらず、その声をどうやって活かせば良いのか色んな音楽の表現方法をたくさん考えた。
考えて、ストイックに努力を続けて唯一無二の世界観を今でも作り続けている。
僕は昔から背中で見せる人間の言葉を信用して生きてきた。例外なく山中さんの背中からもメッセージを感じた。
「弱い部分が無い人間は絶対にいない。みんな何かしらの自分の嫌な部分と向き合いながら必死に生きてる。」
ロックバンドという生き方を選ぶことでそんな自己啓発をしている様にも見える。
弱さを曝け出せる強さみたいなものを感じ取れた。
矛盾してるのに眩しくて仕方がない。
いつか誰かに言われた「もっと楽に考えろよ」という言葉がビキビキと心臓に刺さったことがある。
きっと当人は傷つける気なんて絶対になかったと今では分かるけど、当時はコンプレックスだったからこそ過敏になってしまった、否定されているんだと。
何でそんなことお前に言われなきゃいけないんだよと乱暴な対応をしてしまった。謝れるのであれば謝りたい。
思えば、そういう意味でも音楽には本当に救われていた。
当時ライブハウスでは言葉の意味なんて考える時間はなかった。
アンプから放たれる生の音を感じて心が熱くなり、只々夢中になって騒いで仲間とお酒を飲んだ時間だけはコンプレックスを忘れさせてくれた。
音楽の力は本当に偉大だ。自分と向き合わなくてもいい時間を作ってくれて、アーティストの背中を見てまた頑張ろうと奮い立つことができる
向き合うことから逃げているだけなのかもしれないけれど、なんでも真正面から戦うことが正解なのかと言われると、甚だ疑問に思う。
いつか読んだ難しい本に書いてあったけれど、現代において人は三大欲求よりも更に上の欲求を見つけてしまったらしい。
それが承認欲求だという。
SNS飽和社会の今、他者と比べられてしまうことに対しての自意識の働き方が高くなってる傾向がある。
確かにここ最近ネット上で自分のことを思い詰めたりする人や、特異気質の人をアルファベットの羅列で表現したりするのをよく見かける様になった。そういうことだったのかと変に納得した記憶がある。
エスケープボタンを押せるということは僕にとって救いの様なものだった。そのボタンを押した先で音楽が待っててくれるという事実があるだけで強くなれた。このボタンはこんな時代だからこそまだまだ需要がある
結果として現実と向き合う糧になっているのならそれは絶対間違いじゃない。音楽のおかげで立ち向かうことができたのであれば、絶対に間違ってないと思いたい。
ーーー
僕が当時感じていたコンプレックスは今「自身と音楽を見つめるエッセイ」という形に変えられてこうして発信されている。
この性格が無ければ音楽エッセイなんて大それた名目の活動はできなかったと思うので今はほんの少しだけコンプレックスを許容できるようになった。
僕の扉を開けてくれた鍵は音楽とこの活動だったけれど、鍵穴の形は人によって違うし開けるための鍵も人によって違うので、鍵のかかった部屋を開けるのは中々難しい。
穴の中を除けば形がわかると思って悩んでる人の鍵穴を目を細めて覗いてみたこともあった。
暗くて繊細で全然見えやしない、いつからかその作業は億劫になってやめた。強行手段で開けられるような扉ならとっくに開いているって話だ。
つまり、誰かが勝手に開けるようなものじゃないんだ。合鍵は鍵をかけた当事者にしか見つけられない。
この音楽エッセイで何度か「人が音楽に救われる瞬間」といった様なふわふわとした言葉をなんの恥ずかしげもなく振り撒いてきたけれど、今日この会を経てなんとなくその実態が少し掴めた様な気がする。
病気は治せないし、腹の足しにはならないし、寒さを凌げるわけでもない。
今、ポップカルチャーが危機に追いやられている。この中のどれにも当てはまらないからだ。
どれにも当てはまらないのになんでこんなに愛おしいんだろう?その謎が解けるまでこの承認欲求に溢れた旅を続けていこうと改めて決意したところで今回の旅は終わろうと思う。
こんな世の中だからこそ、声を大にしてこの言葉で締めくくろう。
僕は今日も音楽に救われてる。
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