「ほめる」よりも「驚く」の効果が劇的なのはなぜなのか

私はよく「驚く」を推奨しているのだけれど。
「ほめる、もそこそこ効果的だが、『驚く』に切り替えてからは効果が劇的」というご意見をよく頂くようになった。たぶんそうだと思う。「ほめる」も「驚く」も似ているようだけれど、重要な違いがあるらしい。

「ほめる」は、ほめ方にもよるのだけれど、次のような課題がある。
①上から目線を感じさせやすい。
②ほめる側はその分野にすでに詳しい。
③その分野で頑張らせようという魂胆が見えてしまう。

時代劇なんかで「お褒めの言葉」というけど、「ほめる」は基本、上の立場の人間が下の人間にかける言葉。もし部下が上司をほめたら、上司が怒るかも。下から上にかける言葉は、「ほめる」ではなく「おだてる」になりがち。「ほめる」は対等な関係では難しい。ほめた時点で上下関係を感じさせかねない。

また、「ほめる」人は、その分野にすでに詳しいからほめる、という構図が見えてしまう。どのレベルに達しているのかを判断できるから「ほめる」ができるわけで。ということは、技術や知識の熟練度においても「ほめる」側が上で、ほめられる側は「まだまだ未熟」という関係性を感じさせがち。

それに「ほめる」ということは、その分野でもっと努力して腕を磨くといいよ、というそそのかし要素が結構ある。勉強してほしいとか、もっと仕事してほしいとか、もっと業績挙げてほしいとか。そうした魂胆が見えてしまうので、かえって「ほめる」とやる気をなくす事例も少なくない。

これに対し、「驚く」は。
・意表を突かれているから驚く。
・同じことをしても驚かせられない。
・上下関係なしに驚ける。
・驚かした側は、また驚かしたくなる。
・その分野でまた驚かそうと思うかはコントロールできないが、驚かすことができた分野は好きになる。
という効果がある。

私は、子どもや部下をみるとき、自分の高さから見下ろすことをしないようにしている。私は当然ながら自分の分野ではいろんな知識や経験がある。子どもや部下にはそれがない。もし私自身の知識や経験から見下ろしたら、驚くことはできなくなる。しかし。

目の前の子ども、あるいは部下に当たる人の知識や経験を想像し、「もし自分が目の前の人だったとしたら」を考える。すると、少ない材料からこのことに気づけるか?というと、難しいなあ、と思うことがほとんど。しかも私は、なるべく教えない。教える材料はなるべく最小限にして考えてもらう。

「ここはどうなっているだろう?」「この場合はどう考えたらいいだろう?」と、ヒントとなる着眼点は示すけれど、答えは教えない。相手の知識と経験と、与えられた最小限の材料だけで気づくことができるだろうか?と、相手の立場になって待っている。すると、相手が何かを口にしてくれる。

それがたとえ勘違いであっても「あ、そっちの方にも考えられるのかあ。なるほど!」と素直に驚ける。それはそれで素直に感心して、「その場合、ここがこうなってしまうでしょ。だとしたら?」と、新たに着眼点を追加して軌道修正を図り、再び考えてもらう。すると、ある瞬間、正解にたどり着ける。

「そう!よく気づきましたね!」と素直に驚ける。映画の主人公になり切った気分でいると、スリルとサスペンスを味わえる、あれと同じ気分。よくぞそれに気がつきました!と、意表を突かれる思い。だから素直に驚ける。

こうして驚くと、相手は「また驚かせたい」と思うようになるらしい。自分の思考力、推理力、気づきの力、そうした自分の力で解決に導き、その様子に相手が驚いた様子を見て、思考力、推理力、気づきの力をさらに発揮してやろうという気分になるらしい。実際、この後はそれらの力がグンと伸びる。

「驚く」は、同じことを繰り返されても驚くことができない。だから、相手は新たな工夫や発見、挑戦をしなければならないことになる。「ほめる」の場合は、同じことを延々と繰り返し、「ねえ、ほめて!」になりがちなのだけれど、「驚く」の場合、そうした副作用は起きにくい。

最近はどこの職場も年上部下が多い。年上部下の方が知識も経験も豊富だったりする。そうした人を、自分が上司だからと言ってほめると、かえってバカにされた気分になって腹を立てられることがある。このため、年上部下との向き合い方に苦労される方が結構多い。

私は自分より年上のスタッフに働いてもらったりしたことがあるのだけれど、みなさん、実によく働いてくださる。それは私が「驚く」からではないか、と考えている。「なーるほど!そういう方法がありますか!」「ははあ、それは面白いですね!」と驚いていると、いろんなアイディアを提案してくれる。

問題のありそうな提案の場合は「こうした課題が将来出てきてしまいそうですね。何か別のアイディアはないですか?」と問いかける。問い、答えてもらい、驚きつつ、さらに問う。これを繰り返すと、自分の出したアイディア実現のためにものすごく能動的に取り組んでくださる。

「何か気づいたことはないですか?」ともよく尋ねる。答えてくれたら「さすが!それによく気がつきましたね!」と驚いて見せる。すると、実によく観察し、気づきを教えてくれるようになる。観察力に磨きがかかり、どんどん驚かされることになる。これは年下も年上も関係なし。

基本、驚くという行為は、相手がどの分野に興味を持ち、進むことになるのかはコントロールできない。でも、驚かせた側は、驚かすことのできた分野を好きになることが多い。「驚かす」ことが、人間は大好きだからだろう。

「驚く」上で注意が必要なのは、「外側」に驚かないこと。その人の内面に驚くこと。
社会的地位の高さに驚くとか、稼ぎが多いことに驚くとか、美貌に優れているとか、そうした「外側」に驚くのではなく、相手の工夫、努力、苦労、発見、挑戦という、内面に深くかかわることに驚くこと。

個展を見に行って「この絵が100万円で売れるなんて、すごいですね!」なんて驚いたりほめたりしたって、それで喜ぶ画家は少ないと思う。外面的なことでしか評価できない人なんだな、と思われて。もし会心の作を世に出しても、金額が低ければこの人は目もくれないのだろうな、と感じさせて。

でも、「この水辺は、本当の水よりも清らかに感じるのですが、それはなぜなんでしょうか?」とか、「この鳥が雄々しく見えるのはどうしてなんでしょうか?」と、画家が工夫し、努力し、苦労した点に気づいてもらえたら、その画家はその工夫について気分良く、詳しく説明してくれると思う。

その工夫に驚きの声を上げれば、もっと詳しく説明し、こちらを驚かそうとしてくれるだろう。自分の工夫、努力、苦労に気がついてくれた、それに驚いてくれたと嬉しくなって。そして次の個展では、さらなる工夫を重ねてみる人を驚かせたい、と企むようになるだろう。

工夫や発見、挑戦に驚くようにすると、その人はますます工夫、発見、挑戦しようとする。そして、工夫・発見・挑戦は、分野を問わず、その人の能力を引き上げることになる。その人は観察せずにいられなくなり、工夫をするために仮説を立てるようになり、実践してみたくなるからだろう。

工夫・発見・挑戦に驚く人がいると、人間は、ますます工夫・発見・挑戦したくなり、能動的に物事に取り組みたくなるらしい。だから、「工夫・発見・挑戦に驚く」は、人を能動的に変える「触媒」になるように思う。この触媒は、年齢にかかわらず効果があるように感じている。

人間が能動的になり、工夫・発見・挑戦をやめようとしないならば、様々な分野で能力が開発される。どの分野に進むかはコントロールできないが、工夫・発見・挑戦は、あらゆる分野に通じる能力開発の要。その要の部分を、「工夫・発見・挑戦に驚く」はパワーアップするように思う。

私は昨今、「驚き屋」に徹することを心がけている。しかし私もご多分に漏れず、誰かを驚かしたいという欲求を抱えているので、いつもうまくできるわけではない。でも、自分が「驚き屋」になれたときは、周囲が非常に活気づき、楽しい空間に変わる。皆が工夫し、発見し、挑戦して楽しそうになるから。

「ほめる」と「驚く」は重複しているところも多々あるので区別されにくい。そのためか、「驚く」の説明をしても「つまり、ほめればいいんですよね」という反応を頂くこともしばしば。でも、どうも「ほめる」というのは解像度が悪い言葉で、「驚く」以外の余計な行為も「ほめる」だったりする。

だから私は、「ほめる」という言葉を使わなくなった。「驚く」で統一するようになった。そしてなるべく、「工夫・発見・挑戦に驚く」ようにしている。外面的なことでは驚かず、本人の内面に起きた工夫する気持ち、発見しようという観察眼、挑戦する勇気、それらに驚くようにしている。

これらは、人を育てるという面だけでなく、人付き合いする上でも非常に有効だな、と感じるようになった。年をとってこれらのことに気がついて、生きるのがずいぶん楽になった気がする。若い頃にこれに気づいていたかったなあ、とも。

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