「呪い」としての「ほめる」

「呪い」としての「ほめる」を少し考えてみる。
ほめ育てが推奨されるようになって随分になる気がする。二十年にはならないが、十年は軽く突破してるように思う。
ほめ育ての話が流行り始めた頃、その通りと思う面もあったけど、万病に効く魔法のクスリみたいな扱いには違和感があった。

レ・ロマネスクさんの歌に「アメとアメ」というのがある。ムチなんかいらない、アメだけください、ほめられて伸びるタイプですと自称する若者をおちょくった内容。ほめ育てが流行するようになって数年経つと、自ら「ほめられて伸びるタイプ」という若者が現れ始めたのを皮肉った歌。

これに反発してか、「厳しく育てる」が反動的に一部元気を取り戻したり。叱って育てるとか。しかし、ほめ育ても叱り育ても、「方法」に注目行き過ぎて、肝心の子どもや部下を見ていないな、と思う。自分の振る舞い(ほめる、叱る)に意識振り向けすぎ。

ほめ育ては、自己肯定感が流行し始めてからさらにアクセルかかった感じ。自分を肯定するにはまず親が肯定する必要が、ということで、ほめ育てがますますエスカレートした気がする。
しかし私は、いのちってそんなにバカじゃないと思っている。ほめたくらいで自分を肯定できるものじゃないと思う。

ほめられて得るのは、もしかしたら肯定感ではなく、「言質」なのかもしれない。
「ほめたよね?いまほめたよね?忘れるなよ、いまほめたこと。後でそのほめ言葉を大いに利用してやるからね」
ほめるとつけあがる、という現象は、それによって起きるのかも。
https://note.com/shinshinohara/n/ndba5073538e3

人間、ほめられて嬉しかった経験はたくさんある。だからほめるというご褒美で人を釣れると勘違いしてしまいがち。しかしお金でさえ、相当積まないと人は動かなかったりする。ほめたくらいで人が動いたら世話ない。実際には、ほめたくらいでは人は動かないのが事実だと思う。

ほめられてやる気が起きたときと、ほめられたらやる気が失せていい気にだけなるときと、何が違うのか、きちんと分析する必要があるように思うのだが、ざっくり「ほめる」でくくるから、ビルから落ちるのと水鳥が魚を捕まえるために水面に向かって落ちるのとをゴッチャにするくらいの混同が起きてる。

ほめる、って言葉はあまりにもあいまい過ぎて、使うのを一切やめてみるのも一つの手だと思う。曖昧なまま「ほめる」はよいものだと考えてゴッチャにしたまま実践すると、「卵を割る」のを「握りこぶしで叩き潰す」と解釈するくらいの振れ幅になりかねない。ほめる、はあいまい過ぎる言葉。

結果、「ほめる」が独り歩きし、呪いの言葉のようになってる。ほめたのに動かないのは、子供が悪い、部下の人格がねじ曲がってるからだ、と、相手のせいにすることが起きかねない。そうしたことが頻発するなら、呪いになりかけてるように思う。

「ほめる」という自分の振る舞いに注目せず、もっと相手(子どもや部下)を見たほうがよいように思う。そして、自分の知らない特徴や側面がないか、いろんな工夫をし、声掛けを変えてみたり、返事を工夫してみたりして、相手の違う側面の発見に努めてみるとよい。すると。

あ、こんな面があったのか。へえ。
その軽い驚きは、相手に伝わる。その驚きは、相手の好意的な反応をもたらす。驚いてくれる人が好きだから。
相手を漫然と見るのではなく、いろんな実験をして見るとよいように思う。

私は小学校の頃、協調性がないと先生に目をつけられ、ついに先生に罵られるようにまでなってしまった。それに気づいた父が、初めて学校に面談に行ってくれた。
先生は私の協調性のなさについて事例を挙げ、嘆いて見せたという。一通り聞いた父は、次のように言ったという。

「協調性のなさは、息子の長所です。息子の長所を潰さないでください」
先生は、欠点としてしか協調性のなさを捉えていなかったので、父のこの発言にキョトンとしたらしい。父は続けた。
「社会は、約1割くらいの孤独に強い人間で支えられています。夜の警備員、発電所の点検など」

「たった一人でそうした仕事をこなさねばなりません。そうした仕事は、孤独に耐えられる人間でないと務まりません。息子の孤独への強さは長所です。とうか息子の長所を潰さないでください」
協調性のなさは欠点でしかないと思っていた先生はびっくりした。まさかそれが長所だなんて!

先生は他の子の問題行動についても父に話してみたところ、父はそれらをすべて長所に言い換え、先生はまたまたびっくり。他の子のことも相談し始めたので、父との面談は一時間以上にも及び、父は廊下で待ちくたびれてる他の保護者のことが気が気でなかったという。

その後、先生の私に対する態度が豹変した。私をじっくり観察し、声掛けを工夫するように。すると、集団行動が苦手だったはずの私が、先生の的確な声掛けでスムーズに集団に馴染めるようになった。
マラソン大会で母が応援に出ていると、先生が駆け寄り、こう言ったという。

「篠原くんのお父さんは、心を2つも3つも持ってる方ですね!」

先生の私への声掛けは明らかに変わったのたが、ほめられたという覚えはない。先生は私をおだてたり、意のままに動かそうとしたりはしなかった。先生がしたのは。

篠原くんの協調性のなさは欠点ではなく、孤独に強いという長所なんだ、だったらそこを矯正しようなんて考えるのはやめよう、彼の長所はそのままにして、今、どんな声掛けをしたらどんな反応をしそうか、その都度考えよう。そういったことだと思う。そしてそれらの声かけには無理がなかった。

無理のない声かけだったので、私はやってみる気になった。やってみたら先生が驚いてくれた。たぶん「あ、こう声掛けしたらいいのか!」という発見が先生にあったのだろう。私に試行錯誤して接してくれるのは、無理がないのでハズレが少なかった。

私達家族が引っ越すことになったとき、「ようやく篠原くんのことがわかりかけてきたのに」と残念そうにしてくれた。
先生の中で、ああでなければならぬ、こうでなければほめるに値しない、という「呪い」が解け、私を虚心坦懐に観察してくれるようになったのだと思う。

ほめる、というのは、どうしても何かしらの価値規準を胸に抱いてしまう。それに値するときはほめ、そうでないときはほめない。価値規準を見て、子どもを見ていない。価値規準とは別の子どもの思いに気づくのが難しくなる。

「ほめる」は、その前提となる「こうであらねばならぬ」という「呪い」がもれなくセットでついてくるのがまずいのかもしれない。そんな呪いにかかるくらいなら、ほめることも「ねばならぬ」の価値規準も忘れて、目の前の子どもに関心を持ち、観察し、工夫、発見、挑戦を楽しんだ方がよいように思う。

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