空気を読まない希少種は保護し、増やさねばならない

唐の皇帝、太宗は、皇帝に対して耳の痛い意見(諫言)を伝える諫官という職をわざわざ置いたという。皇帝が自分の好きなようにだけし、誰もそれを止めないならば、国全体がおかしな方向に進む恐れがあるからだ。
https://www.dailyshincho.jp/article/2023/10070600/?all=1

民主主義において「諫官」にあたるのがマスコミ。だからイギリスもアメリカも、マスメディアの独立性を大切にした。時には「その報道おかしいやろ」と思い、不満をぶつけたくなることがあってもマスコミを潰してはならないと考えてきたのは、この諫言機能が極めて重要だということを知っていたから。

ではマスコミが常に正しいかと言ったらそんなことはない。人間のやることだから間違うことが多々ある。それはいくら何でも行き過ぎだろ、ということもある。けれどそれでも大切な機能。それは肉体で例えるなら、交感神経と副交感神経のようなもの。他方は活性化し、他方は抑えようとする。

ホルモンも、血気盛んにする効果のものもあれば、落ち着かせる機能のものもある。こうした相反する作用をするもの(拮抗作用)を用意することで、生命は成り立っている。諫言機能を失うことは、副交感神経なしに暴走させるようなもの。痛覚神経を失って骨折しても気づかないようなもの。

三国志で有名な劉備の軍には、簡雍という同郷の友人がいた。この簡雍が敵軍に使者として赴いたとき、敵将はあっけにとられた。劉備の悪口言いまくるわ、劉備軍の弱点は話してしまうわ。「俺は劉備の友人で対等。あいつの便宜をはかる義理はない」と言って、それで帰ってしまった。

敵将は簡雍が帰ったあと、考え込んでしまった。いくら同郷の友人とは言え劉備の軍に世話になってるはず、だけど言いたい放題。そんなハチャメチャな人間を使者によこしたということは。「劉備という人間、よほど懐が深いのか」自分が降伏してもその懐の深さで受け入れてくれるかもしれない。

で、敵将は劉備に降伏した。簡雍のような、自分の悪口をいう人間さえも包摂できる劉備の器の大きさを、簡雍のハチャメチャさから感じ取ることができたからだ。
私は、望月記者が登場したことはむしろ歓迎すべきことではないか、と思う。「王様は裸だ」と口にするのは、忖度する人間には恐怖。

しかし望月氏は平気で空気を破るようだ。どうやら、空気を読む記者が多い中、空気を読まないなんて、実に素晴らしい資質ではなかろうか。
山本七平「空気の研究」という、大変面白い本がある。日本軍は戦中、「空気を読む」人間ばかりになっていた。

「私は内心戦争に反対だった」と口にする軍幹部ばかり。ところが誰も反対を唱えなかった。「とてもそんなことを口にできる空気ではなかった」と、誰もが口を揃えた。戦前、戦中の軍人は、誰も「王様は裸だ」と言えなかった。忖度し、空気を読む人間ばかりだった。

このあたりの分析は「失敗の本質」という名著にも書いてある。このままではダメだというのがわかっていながら、口では勇ましいこと言って同調してしまう。空気を破ることを言えず、空気を読み、空気に合わせてしまう。これが日本の「失敗の本質」である、という分析。

山本七平氏は、面白い分析をしている。明治の男たちは空気に同調することを恥ずかしいと考えていたという。空気ができあがりそうなら進んで「水を差す」のが当然と考えていたらしい。明治維新の激変を乗り越えるには、空気を読んだとしても合わせてなるものかという気概が必要だったのだろう。

冒頭のデイリー新潮の記事は、空気を読み過ぎてはいないか。裸の王様を見て「素敵なお召しもので」と同調してるように見える。こういう言動をどういうかというと、曲学阿世(学問を曲げ、世におもねる)という。記者も生活があるからそんな記事も書かなきゃいけないのかもしれないが。

誰も裸の王様を「裸だ」と言えなかったのは、「そんなことを言ってお城に出入りすることができなくなったら商売上がったり、生活できなくなる」と心配する者ばかりだったからだ。王様と利害をともにするものは、忖度をついついしてしまう。諫言なんか恐くてできやしない。

そうした人間がいるのも、また世の中。だけど、だからこそ「王様は裸じゃないか」と大声で口にし、空気を破る存在が必要。その一言が出ることで「いや実は、私もそう思っていた」と勇気を持ってそちらに同調できる人物が現れる。それによって空気の流れが変わりうる。

「王様は裸だ」と、空気を読まずに口にできる存在、これは極めて貴重。唐の太宗の時代でも、そんなことを口にできる人物はなかなか見当たらないからわざわざ「諫官」を置いた。意識的に保護し、空気を破る存在を維持しておかないと、「失敗の本質」は克服できない。

これだけ批判されながらも空気を破り続ける望月氏も大したものだが、これだけ目をつけられてるのに自由に泳がせている東京新聞の幹部たちの度量は大したもの。空気を破り続けるのは、マスコミが果たすべき一番の機能だ。

マスコミは広告収入で食べてるという現実があるために、空気を読むことを余儀なくされる面がある。それでもマスコミが期待されている機能は、水を指すこと。空気を破ること。そこに空気の淀みができかけていたら、とりあえず水を差すこと。

いろんな批判はあるだろうし、その批判が当たっていることもあるのかもしれない。しれないが、マスコミの本分が空気を破り、水を差すことにあるならば、私は望月氏を袋叩きにすることに同調したくはない。あえて私も「水を差す」ことにしたい。

けれど、望月氏の言うことを全て正しいと考えるわけではない。誰もが過つことがある、人間。限りある身の人間が、その多様性を活かし、様々な意見があり、空気がある中で意見を交わし、そこから新たな知を生み出す。そのためには、常に空気を破り、水を差すことが大切。

誰かだけをやり玉に上げ、血祭りにし、それを見て「空気を破るとこんな目に遭うのか」と、皆が怯える社会はろくでもない。戦前戦中の失敗を繰り返すことになる。私達の社会全体が、もっと度量を持つようであってほしいように思う。劉備が簡雍を抱え続けたように。

「何もよりによって望月氏を守らんでも」という内容のご意見を頂いた。実のところ、私は望月氏の取材ぶりを見たことがない。それでもわかることが一つある。希少種であること。本来空気を読まず、水を差すのが本分であるはずなのが記者なのに、政治部も芸能担当も空気読みまくりというのが、近年明らかになったこと。もし希少種が攻撃によって滅ぼされそうになっているなら、とりあえず守ることが必要と考える。望月氏以上に空気を読まない記者が増え、望月氏がいなくなっても空気が破られることがなくなったら、それから考えればよい。

昔、中国の王様が「人材を集めたいがどうしたらよいか」と相談した。すると「まず私を重んじてください」と郭隗(かくかい)という人物がアドバイスした。「「郭隗程度の人物が重んじられるなら、才能ある自分はもっと重んじてもらえるに違いない」と、全国から人材が集まるでしょう」と。

これが「先ず隗より始めよ」ということわざになった。今、絶滅危惧種になってる希少種を滅ぼしたら、空気を読む記者ばかりになる。そうならないよう、希少種をまず保護する。空気を読まない記者だらけになってから考えたらよい。私はそう思う。

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