失敗は応用力の゙源泉

応用力の源泉は失敗にある。これを教えてくれたことは、人工知能研究の最大の功績の一つではないだろうか。

人類の歴史は長らく、「正解」を重視し、誤りや失敗を軽蔑してきたように思う。「真理真実の追求」なんて言葉は、いまだに素晴らしいことだと思われているのも、その現れだろう。


人工知能の研究にもその「思い込み」は反映して、過去の人工知能の研究では、いかに機械に正解をたくさん憶え込ませるか、をやっていた。なるほど、教えたことは正確にできるようにはなるのだけど、少し状況が異なるだけでうまくいかなくなる。ロボットアームは、少し位置が違うだけでもうつかめない。


近年の人工知能の研究では、「失敗」をたくさん学習させることにした。いわゆる深層学習。これは画期的なアイディアだった。ものをロボットアームにつかませる実験を膨大に繰り返す。ものすごくたくさんの失敗をするのだけど、それにより、荷物がどんな向きであろうともつかめる応用力を身に着けた。


それまでの人工知能は人間が教えたこと以外は何もできなかったのに、失敗を学ばせた人工知能は、教えていないのに応用が可能になった。正解を教えるよりも、失敗の体験もひっくるめて本人に学ばせると、応用が効くようになるという、画期的な出来事だった。


このことは、人間についてもあてはまる気がしている。不器用で応用力のない人がいるけど、もしかしたらこの人たちは失敗が許されず、正解だけを追い求めてしまった結果なのではないか、という気がする。


何を隠そう、私自身がそう。赤ちゃんの頃はニコニコ笑う子どもだったそうだけど、斜頸の疑いを持った母が妙なマッサージ師のところに連れて行くようになったために、赤ん坊の私は恐怖を覚えたのだろう、笑わなくなったという。その後、交通事故などもして私はすっかり萎縮、ビクビクする子どもに。


生来剛毅でウジウジしたのが嫌いな父は、私のウジウジぶりに苛立ち、カンテキというあだ名もある短気さから「バカモーン!何やっとる!」とすぐ怒鳴るので、萎縮気味の私はますます萎縮。失敗を恐れ、正解ばかりを求める人間になってしまった。


運動も勉強もグズ、と、父からは見えていたようなのだけど、小6の頃、インベーダーゲームで思わぬ反射神経を見せる私を見て、「運動神経が悪いわけではないようだ」と考えを改めたらしい。そこから私への接し方が変わった。萎縮する心を解きほぐす指導に変わった。


失敗を叱るのではなく、失敗も含めて落ち着いて体験を重ねればよい、というふうに変わってきた。すると、応用力がまるでなかった私は、少しずつ硬直した動きや思考が柔らかくなってきた。


成人したあたりから、「誰も叱る人はいないのだし」と、わざと失敗して学び直すことを自分に課した。すると、砲丸投げみたいな無様な投球しかできず、遠投なんかできなかった私が、かなり速いスピードで遠くまで投げられるようになった。


正解だけを追い求め、失敗することを恐怖している間は不器用で仕方なかったが、「失敗はむしろ積極的に体験したほうがよい」と思えるようになったとたん、できなかったことが次々にできるようになっていった。応用力がついてきた。


学生やスタッフの指導でも、「危険でないならむしろ積極的に失敗させる」ことを意識して行うようにすると、効果が大きかった。それまでは「なぜ言った通りのこともできない?」と、その不器用さにイライラすることが多かったのが、「なぜ教えてもいないのに応用できるの?」に変わった。なぜだろう?


どうやら、観察力と関係あるらしい。失敗を恐れ、正解だけを実践しようとする人は、頭の中の正解の想像だけを見て、目の前の現実が見えていない。現実が見えていないから少し思ってたのと違うだけで失敗する。失敗すると「どうしよう」とパニックになるだけで、やはり現実を見ていない。


しかし意識して失敗を体験するくらいの気持ちでいると、失敗しても「今、何が起きたんだろう?」と、冷静に観察するゆとりがある。観察するから、どんなメカニズムでそうなったのか、仕組みがわかる。仕組みがわかるからどうしたらよいかも見えてくる。だから応用力がつくのだろう。


考えてみたら、赤ちゃんは失敗しまくり。ものをうまくつかめないし、うまく食べ物を口に持ってくることもできないし、立つことも話すことも失敗しまくり。その失敗ばかりの試行錯誤の中で、うまくいく方法を学んでいく。しかし。


正解を強く求める親、ないし大人に育てられると、萎縮してしまう。「またご飯をこぼして!」「そうじゃないって言ってるでしょう!こうするの、こう!」と、正解以外の振る舞いに厳しく接してしまうと、子どもは萎縮してしまう。すると、正解だけを追い求め、失敗をひどく恐れる子どもになってしまう。


しかし、失敗を恐れ、正解だけを追い求めるようになると、旧式の人工知能研究と同様に、正解以外は実行できない不器用なロボットが出来上がる。不器用な子どもとは、失敗に厳しく、正解だけを求める指導環境から生まれてしまうものなのかもしれない。


赤ちゃんは離乳食を食べるようになると、わざと食べ物や食器を床に落とすようになる。大人の「正解」から考えれば、これらの行為は失敗であり、はしたない、不躾な行動。でも子どもは、「落下」という興味深い現象を探求してる最中。それは失敗してるのではなく、実験。


でもそれを失敗とみなし、厳しく叱ってしまうと、子どもは失敗を恐れ、実験しなくなってしまう。失敗からメカニズムを知り、正解を導き出すという応用力をつける道を絶たれ、大人から言い渡された「正解」を実行することにキュウキュウとなってしまう。しかしその状態は。


大人の顔をうかがいながらだから、目の前の現実を見ていない。観察できていない。「失敗したら叱られる、どうしよう」と、失敗する前から失敗を想定し、叱られてもダメージを減らそうと身構えることにエネルギーを費やす。現実を観察するゆとりも失って。


こうした状態を脱するためには、むしろ失敗を楽しむくらいの心構えのほうがよいように思う。危険な失敗でなければ、むしろ積極的に失敗しておく。そして落ち着いてその失敗を観察し、何が起きたのかを興味深く観察する。それによりメカニズムを理解すれば、応用力がつく。


失敗は応用力の゙源泉。そう考えたほうが、子どもの指導、部下の指導では有益なのではないかと思う。

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