空虚のデザイン 関係的権力と構造的選択圧(構造的権力)

私にとっての、子育ての重要なヒントに。そして万を超える種類の微生物を一緒くたに培養しながら、一つの機能を引き出す手法の開発にも役立った、国際政治学の本がある。スーザン・ストレンジ「国家の退場」。この本の中に、「関係的権力」と「構造的権力」という2つの権力が紹介されている。

関係的権力とは、ギャングのボスとか恐い上司とか強権的な親とかが、立場の弱い手下や部下や子どもたちに対し、命令で従わせようとする権力の形。恐怖で従わせるこの手法は、なるほど一部の人間を支配できるかもしれないが、相手を指示待ち人間に変え、思考力を奪ってしまう。しかも。

支配できる人数は、恐怖で支配できるだけの直接的に関係する人間に限られる。だから、関係的権力は支配できる人数に限りがある。それに、支配した人間は指示待ちになってるからとても手間がかかる。自発的人間がおらず、自分が全部命令指示しなきゃいけない支配構造となる。

構造的権力は、細かく命じなどしない。その代わりルールを定める。国家であれば、たとえば法律。「マジメに働けば給料も上がるし豊かな生活が送れますよ、泥棒など誰かに迷惑をかける行為をすると牢屋に放り込まれますよ、どれを選ぶかはあなたの自由です」と、任せてしまう。すると不思議なことに。

ほとんどの人がマジメに働き、犯罪を犯さなくなる。しかも億を超える人口の人々が自発的に。いちいち命じもしないのに。
法律という形で、人々がどう動くと幸せになれるのかの「構造」を用意すれば、人々は自然と構造に合わせて行動する。こうした支配のあり方を構造的権力という。

これは老荘思想にも通じる考え方。水に対して四角くなれ、丸くなれと命じても、殴って言うことを聞かせようとしても言うことを聞いてはくれない。むしろ飛び散るだけに終わるだろう。しかし面白い方法がある。

四角い器や丸い器を用意すること。器の空虚の中に水を注ぐと、空虚を自然に埋めてくれる。空虚を埋める形で、四角くなったり丸くなったりする。しかも、水が、自発的に。構造的権力とは、これと同じように「空虚」の形をデザインし、あとは人々の自発性に任せる手法だと言える。

孫子の兵法で関係的権力と構造的権力を考えてみると面白い。たとえば城攻め。関係的権力は、いわば城を完全に包囲して「城を開けろ、皆殺しにしてやる」と命じるようなもの。ところが城兵は降伏するとは限らず「どうせ死ぬなら徹底的に戦ってやる」とかえって腹を決め、何ヶ月も城が落ちなかったり。

しかし孫子の兵法では「囲師必闕(いしひっけつ)」が勧められている。城攻めの際は完全包囲せず、必ず手薄な箇所を設けておけ、というもの。すると城兵は「夜の闇に紛れたら、あそこから逃げられるかも」と思い、戦うよりも逃げ腰になる。そして実際、夜になるとそこから脱出。難なく城を落とせる。

この城兵の動きを見てると、まるでダムの水の動きを見ているよう。「ダムのアリの一穴」と言うが、ダムのどこかにアリが通るほどの小さな穴が開くだけで、水はそこめがけて殺到する。水が吹き出てくる。水は陰を埋めるように、空虚を埋めようと動く。

私はこの構造的権力の考え方を参考に、万を超える微生物を一緒くたに培養しながら、望ましい機能を引き出す手法の開発に成功した。複数種類の微生物を共培養する研究がほとんどなかった中、こうした手法は異例中の異例だったと言える。

こうして見ると、水も、微生物も、そして人間も、同じ動きをすることがわかる。ある種の「構造」が与えられると、その構造の中の「空虚」を埋めるように動く。水も、微生物も、人間も。それが構造的権力の興味深いところ。まあ、私は微生物の培養手法として「構造的選択圧」と呼んでるけど。

子育てにおいてもこの構造的選択圧、あるいは構造的権力は有効だと考えている。こまごま指示命令しない。人を傷つけたり危険なことをしたらしこたま叱るけど、それ以外は特段何をしろとは命じない。その代わり、ある形の「空虚」を用意する。

自発的に行動したら、その能動性が発生した「奇跡」に驚く。工夫し、試行錯誤したら驚く。それまでにしたことのない挑戦をしたら驚く。何かそれまでになかった発見があったら驚く。持続的に努力する様子を見せたらそれに驚く。苦労をいとわずのめり込むようなら驚く。でも本人が動くまで何も言わない。

そうした「構造」を用意して見ていると、子どもは自発的に何かしらをしようと動き出す。親の私はその能動性が現れた奇跡に驚く。それまでにやったことのない工夫や挑戦をしている様子を見て驚く。その過程で新たな発見をしてるのを見て驚く。すると。

子どもは、自分が能動的に動くと親が驚き、新たな工夫や挑戦をすると驚き、何かしら発見をすると驚く様子を見て、楽しくなるらしい。子どもは親を驚かすのが大好き。だからもっと驚かせようと、ますます能動的に、工夫や挑戦に積極的になる。するとこちらもどんどん驚かされることになる。

こうした構造の中では、自然と子どもは能動的になり、工夫や挑戦をやめようとしなくなる。これまでにない工夫を試す子は、どんな困難もそのうち打破する工夫を発見する。そうした工夫を見つけるために、ヒントはないかと本を読んだり図鑑を開いたり。こうして勝手に意欲的に学んでいくものらしい。

私は、こうした「構造的選択圧」の手法を、学生やスタッフにも応用している。何をすると驚くかをデザインし、その機会がくるのをひたすら待っていると、自然と工夫し、挑戦し、発見しようとするようになる。自発的能動的意欲的に。どんどん研究が進むから助かる。

考えてみると、昔のリーダーというのは、こうした構造的選択圧の手法を取り入れていたものと思われる。大山巌は細々としたことは言わず、部下に任せきりだった。一見、何もしていないように見える。けれど、部下が能動的に動き、自ら工夫すると目を細め、喜んでいた。

すると部下たちは自然とアクティブになり、どんどん創意工夫を重ね、有機的機能的に躍動した。大山巌はその様子に驚き、大したものだと感心していればよかった。でも、恐らく大山は意図的に、何に驚き、感心するかをデザインし、あとは部下が動き出すのを待っていたのだろう。

そして大山が用意した空虚の中で部下が動き始めたとき、まず能動的に動き出したことに驚き、面白がり、それに味をしめた部下はますます能動的になって工夫を始め、するとその工夫に大山が驚き、という形で、大山の用意した「空虚」を埋めようと部下たちが動くようになったのだろう。

もちろん、犯罪行為には厳しい目を向け、人を傷つけるような言動には悲しそうな顔を向けたろう。こうして、部下のどんな行動に大山が驚くのか、あるいは悲しい顔をするのか、「空虚」の形、構造をデザインすることで、部下の能動性と工夫を引き出したのだろう。

構造的選択圧の特徴は、いちいち命じないこと。与えられた構造の中で各人がどう動くかは、本人に任されている。その上で、これをすると驚かれ、あれをすると悲しい顔をされる、という大まかな「構造」が読み取れると、人はその構造の形に合わせて動き出す。その器を満たそうと動き出す。

リーダーとは、構造的選択圧を採用し、その「空虚」の形をデザインする人のことだと思う。部下はその空虚を埋めようと自発的能動的に動き出す。その空虚のデザインが巧みだと、部下の意欲は高まり、能動的になり、能力も高まる。そういうものだと考えている。

親は、こうした構造的選択圧の「空虚」を用意して、あとは子どもに委ねるとよいのだと思う。いつ動き出すのかも、休むのも、遊ぶのも、みんなお任せ。ただ、工夫や挑戦、発見をした時に驚く。能動的に動き出したその奇跡に驚く。そうでない時は目を細めて眺めてる。それだけ。

すると、子どもは自分の気の向いた時に工夫し、挑戦し、発見することを楽しむようになる。「気の向いた時だけ」でも、「関係的権力」で無気力化した指示待ち子どもよりはるかに意欲的で創意工夫に富むことになる。その分、成長著しくなる。

ロバート・オウエンはこうした構造的選択圧のデザインが上手い人であったらしい。マンチェスターで工場を始める前、ろくに技術を持つ人間は地元にいなかったという。つまり、そこには事前に才能や能力のある人がいたわけではない。そんな中で、オウエンはどんなことをしたら楽しいかのデザインをした。

すると工場で働く人々は自然に工夫を重ね、技術を磨き、やがて世界一の品質の糸を紡ぎ出すことに成功した。ロバート・オウエンのしたことは、工場の人々が、どう行動すると楽しく、生活も楽になるかという構造のデザインをしたに過ぎない。すると人々は自発的にその構造の「空虚」を埋めた。

フォードもオウエンに似た人であったらしい。それまでは自動車の欠陥がよく見つかり、歩留まりが悪かった。熟練工もすぐに辞めてしまい、なかなか経営が安定しなかった。
そこでフォードは重要な「デザイン」変更を行った。週休2日、8時間労働の短い勤務、他の工場の倍の給料。

この破格の待遇に、他の経営者は一斉に批判したという。労働者がつけあがるだけだ、うまくいくはずがない、と。
しかし実際には、ベテランの熟練工が辞めなくなり、労働時間が短いから集中力を高め、ゆとりがあるから工夫に次ぐ工夫が生まれた。このために生産性が劇的に向上した。

フォードもまた、人々がどう動くと楽しく暮らせるかの「空虚」のデザインをした人、と言えるだろう。
この構造的選択圧の考え方で、「驚く」を配置し、空虚をデザインすると、関係的権力で指導するのとは比べ物にならない意欲を引き出すことが可能だと考えている。

ところがどうも人間は、あれこれ口を出して命令する形で人を動かしたくなるらしい。それで動いたとしても指示待ち人間にするだけなのに。意欲を奪ってしまうのに。工夫をしなくなるのに。結果、活力を奪ってしまうのに。それが「関係的権力」の姿なのに。

私は、関係的権力を改め、構造的権力(構造的選択圧)に切り替えるだけでも、かなり世の中は変わると考えている。もともと日本は構造的選択圧を好んで採用していた国のはずなのに、すっかり関係的権力ばかりの国になって、忘れかけている。もう一度、構造的選択圧の有用性を思い出してはいかがだろう。

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