誤りを修正する達成感を奪わない

息子は二歳半で文字を書き始めた。もちろん鏡文字だったりして書き方に誤りはたくさんあった(Fは横棒が何本もあったり)が、それを指摘したり教えたりはしなかった。楽しさを壊したくなかったから。もし誤りがあっても、いつか本人が気づく。気づくまで放っておこう、と。

本人も「なんか違う」というのは感じるらしい。けれどとりあえずそれっぽいので代用する、ということらしい。息子も娘も、どうしたわけかどの色も「あお!」としばらく呼んでいた。まだ発音が難しいので、口にしやすい「あお!」を色の表現として代用していたらしい。

黄色や茶色も「あお!」と言うのは、大人からすれば誤りかもしれない。しかし子どもが現在もてる認知能力と表現力でできる限界がそこなら、修正したり誤りを指摘したりするのはやや厳しい。まだ歩き始めたばかりの赤ちゃんに、紳士淑女の歩き方を指導しても無理なのと同じ。

注意したり修正したり誤りを指摘したりすると一つ残念なことが起きやすい。子どもが意欲を失うこと。原因はいろいろあるだろうけれど、大きいのは「大人が驚かない」ではないか。誤りを指摘するということは、大人はそれをもう知ってたりできたりするということ。ということは、驚かないな、と。

子どもは大人に驚いてほしい。なのに誤りを指摘するばかりだと、たとえそれが親心、親切心からだとしても「ああ、この人はもうなかなか驚いてくれはしないのだな」と気づき、その分野全般に興味を失ったりする。子どもにとって、親や大人が自分の成長発見に驚いてくれるのは大切なごちそう。

だから私たち夫婦は、なるべく教えなかった。教えると、子どもは親が驚かないことを察知するから。でも逆にいうと、教えないのに子どもが自力で発見したりできることを増やしたりすると、素直に驚ける。「よく自分の力だけでそれに気づけたな!」と。

息子はなかなか「あ」を書けなかったけど、放っておいた。「お」みたいな字をしばらく書いていたけど、本人も何か違うとは気がついていたらしく、しかしどこに目を付けたらよいのかわからなかったらしい。しかしそのうち、「あ」が書けるようになった。自分で方法を発明できたらしい。

もちろん私たちはその時に大変驚いた。すると、息子は自分で誤りに気づき、自分で修正したいと強く願うようになった。何事に対しても。
大人はついつい、口を出して「私が教えてあげたからここが修正された」という歴史を積み上げたくなる。けれど、それは親の達成感。子どもの達成感を奪ってる。

子どもは自分で修正する力を持っている。癖になり、なかなか直らない場合でも、本人は気づいている。ただどうやって修正したらよいのかは分からない。それを教えても、体内感覚でそれを解釈できないことが多いので、ただやかましい口出しになるだけのことが多い。「わかってるよ、そんなこと!」

自分でどうにかこうにか修正する方法、道筋を発見できると、強い達成感を味わえる。そのとき子どもは大概「ねえ、みてみて!」と声をかけてくる。そのとき親が驚けば、子どもは大満足する。そして次も自分で解決策を見つけたい、と願うようになる。問題解決能力は、そうして育まれるように思う。

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