ほめて伸ばす、親の期待通りに育てることのリスク

不登校になる理由は様々なので一概に論じることができないのだけど、優等生タイプで比較的よく目にする、気になるケースがある。親の期待通りに育ってきて、思春期に近づいた(あるいは至ってから)時期に破綻するタイプ。

幼い子は、親からほめられるのが大好き。素直に喜ぶ。親の期待に応えたいと素直に思う子が多い。だから親が課題を与え、それをこなそうと素直に頑張る。子どもが幼い場合はこのやり方で比較的うまくいく。ところが思春期に入り、この王道パターンが破綻するケースが目につく。

思春期に入ると、親の言う通りにしている自分がイヤになる。逆らいたくなる。いわゆる反抗期。ところが親の言う通りにしてきて優等生になった子は、自分の意思で自分の行動を決めるということをしたことがないため、何をどうしてよいのか分からない。でもとりあえず親の思惑通り動くのがイヤ。

で、ある日突然、不登校になってしまうケースがある。親は、学校でいじめられているのだろうか、先生と相性が悪いのだろうか、といろいろ気をもみ、原因を探ろうとするが、案外友達とも仲良くやっていて、先生とも関係が悪くないのに、どうしたわけかこれまで通りの生活ができなくなってしまう。

私が思うに、これらのケースは
①反抗期になり、親の言う通り、期待する通りに生きるのはもうイヤ
②でも親の期待通り以外の生き方を選択したことがなく、自分で決めるという生き方をどうしたら分からない
③自分でこうした方がいい、と思う道はすでに「親の期待」で汚されていて、進む気になれない

結果として、何をするのもイヤ、という袋小路に陥り、自分でしたいことも見つけられず、こうした方がいいかもと思える道には「親の期待」が常に立ちはだかって進む気になれず、を繰り返し、どんどん無気力になっていく様子が見受けられる。

息子を殺した元農水省事務次官の親子関係も、どうもこのケース。中学生になるまで、父親が進んだようなエリートコースを夢見て親子で頑張っていたらしい。しかし中学生になり、反抗期を迎えたとたん、子どもは自分が何を望んでいるのか、どうしたらよいのか分からなくなってしまった様子。

こうしたケースの難しいのは、親が「ほめて伸ばす」というそれまでの成功体験を捨てられないこと。元事務次官のケースでは、子どもがトグロを巻いたあげく、ゲームやアニメの道に進みたいと言ったとき、それを応援したという。これを立派な親じゃないかと評価する向きもあるようだが、私は少し違う。

子どもが何も動かないよりはアニメでもゲームでもいいから前に進んてくれたらありがたい、と思い、ぜひそちらでやる気を高めてほしいと「ほめて」しまう。ほめてやる気を引き出そうとしてしまう。しかしそれをやると、子どもは嫌気が差してしまう。親の期待でその道が汚されたように感じて。

こうした親のケースの場合、子どもが進もうとする道に先回りし、自分が子どもよりもその道を勉強してしまい、「こんな学校があるよ」とか「こんな進路はどう?」とか言って、興味を引き出そうとする。しかし子どもはそれらの言葉や行動をどう受け取るかというと。

「オレをまた自分たちの望む方向へと誘導しようとしている」と感じ、イヤになってしまう。「ほめて伸ばす」方法で、中学生になるまでうまく指導できていたという成功体験にしがみつく親は、子どもが成長し、反発するようになっているのにそれをしてしまう。しかし「ほめて伸ばす」はしばしば、

「助長」になってしまう。隣の畑より育ちの悪い苗を見て、成長を促そうと苗を引っ張った結果、根が切れてしまい、翌日全部しおれてしまった、という故事。
親が「ほめて伸ばす」をやろうとするとしばしば、道を先回りして子どもを引っ張ろうとする。それによって子どもは意欲をひどく減退させられる。

こうした場合、子どもは驚いてほしい。決して先回りすることなく、子どもがこうしてみたい、と言い出したその能動性の発生という奇跡に驚いてほしい。しかしそれで有頂天になって先回りして調べたりせず、子どもが自分のペースで自分の道を切り開いていくのを待ち、任せてほしい。委ねてほしい。

でもどうも親が待てない。子どもが小さい頃から、先回りして道を掃き清めることばかりしてきた習い性をなかなか改められない。そうした先回りする習性のために子どもは常に行く先々で親が待ち構えていることを感じ、嫌気がさしているその構図に、なかなか思い至らない。

こうした親は、自分がいかに子どものためを思い、そのためなら労をいとわず動いていると自分を捉えている。自分は悪くない、悪いのは子ども、という思考に次第に囚われていく。元事務次官の事例では、大分経ってから発達障害の診断を受けたという。しかし私には、これは言い訳だな、と思えてしまう。

「親である自分たちは悪くない、悪いのは子どもだ」という免罪符を、診断から受け取ろうとした、という印象が拭えない。確かに、もう成人した人間は親のせいにばかりしていてはいけない、と私は考えている。しかし成人するまでに起きたことは基本、親の責任はやはり大きいとも考えている。

「ほめて伸ばす」方法についつい執着してしまう親は、自分は最善を尽くしている、と考えがち。その方法を受けつかなくなった子どもの方に問題がある、と考えがち。しかし私からすれば、「ほめて伸ばす」が通じるのは多くの場合、小学生までで、思春期にそれを続けると害悪が大きいと考えている。

それに正直、幼い頃ならうまくいきやすいと言っても、「ほめて伸ばす」を幼児期に施すのもどうかなあ、と考えている。というのも、「ほめて伸ばす」で育てられた子は、親にほめられそうなことしかしたことがないので、自分で自分の行動を決定するクセがついていない。

思春期にいきなり放り出されても、「え?自分で決めていいと言われても・・・何をすればほめてくれるの?」と、大人に認められるものを探すクセがなかなか抜けない。自分のしたいことではなく、他人から評価されるようなことを探すクセが抜けない。そのため、大いに混乱することになる。

「ほめて伸ばす」とか、親の期待通りに育てられてきた子どもで、うまくいくケースがあるのも承知はしている。しかし一度躓くと、かなり深刻な状態に陥ってしまう、リスクの高い方法だとも感じている。
「『子供を殺してください』という親たち」というマンガがある。ここに登場する親子が軒並、

と言ってよいほど、子どもを親の望むように育てようとし、小学生くらいまではそれでうまくいったのだけど、思春期あたりで崩れてどうしようもなくなり、ついに手をつけられなくなって「子どもを殺してくれ」と言うようになってしまう親たちが出てくる。こうした親たちは、学歴や社会的地位が高かったりする。

推測の域を出ないが、元事務次官の例も、この漫画の親たちの事例に漏れない気がする。「ほめて伸ばす」の手法にいつまでもこだわり、親の期待先行で子育てをしてしまうと、思春期になってひどい混乱を招く恐れがある。幼い間に著効を示すからといって、安易にこの方法をとらないほうがよいように思う。

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