幼稚園教諭、保育士、子どもが就学前の母親は「偉大な教師」

「普通の教師は言わなければならないことを喋る。
良い教師はわかりやすいように解説する。
優れた教師は自らやってみせる。
そして、本当に偉大な教師というのは生徒の心に火をつける。」
ウィリアム・アーサー・ウォードの言葉というこれ、特に最後の段落は面白い。

子どもたちが通った幼稚園の通信簿?を見ると、「どんなことに意欲的に取り組んだか」が書いてあった。上手にできたとかではなく、ともかく意欲を見てるという内容。そして意欲的に取り組んだら先生は驚き、意欲的に取り組むことを楽しいと思えるように導いてくれてるんだな、ということがわかる。

今の小学校は私たちの頃よりずいぶん変わったけど、それでもシステム的に「何を教えたか」に軸足があり、意欲は学ぶことの手段に成り下がりがち。多くの子どもが小学校入学をきっかけに学習意欲を失うのは、意欲に着目するのではなく「何を教えたか」のカリキュラム消化に軸足を置かざるを得ないから。

私は極論すれば、何を教えたかどころか、何を学んだかも気にしなくてよいと考えている。意欲に火がつけば子どもは勝手に学ぶ。そして逆に、何を教えたか、何を学んだかを気にすることはしばしば、意欲の火を消す行為になる。

小学校の通信簿を見ると、何ができて何ができてないかという「結果」を書いてある。これは意欲の火を消す素晴らしい方法。
いや、先生が子どもの進捗具合を把握してるのは大切。けれど、子どもがそれを見ることは、子どもの値踏みをしてると伝えるようなもの。できない子はますます意欲を失う。

幼稚園の先生や保育士の方々は、子どもに何を教えたかではなく、その子が「できなかった」を「できた」に変えた挑戦、あるいは工夫に驚く。または、できないことができないままでも、諦めずに取り組むことに驚き、感心する。この接し方は、子どもの学ぶ意欲の火に燃料を注ぎ込む。

ところが、熱心に取り組んでも結果しか見ず、点数だけつけると、子どもは見てもらえてないと感じる。寂しく思う。つまらなく感じる。結果だけを云々されると、途中の工夫や挑戦を見てもらえず、だんだんやる気を失う。

子どもの意欲に火をつけるのはある意味簡単で、評価せず、ただひたすら工夫や挑戦、発見に驚いていればよい。幼稚園の先生や保育士の先生のように。すると子どもは工夫や挑戦を止めない。熱心に取り組む。集中し、粘り強く。だから学習量が膨大になる。観察が濃密だから体験量が違ってくる。

けれど教える側が、自分が何を教えたか、生徒が何をできるようになったかばかり気にして、意欲を後回しにすると。生徒はつまらなくなる。工夫や挑戦といった、内面の炎を見てほしいのに。それに驚いてほしいのに。外面的表面的な結果ばかり見て、工夫や挑戦に驚いてもらえなくなり、つまらない。

最終的に子どもは、結果だけを取り繕えば大人は喜ぶことを学ぶ。すでに学習がつまらなくなってるので、なるべく手を抜いて結果を出す省力的、やる気なしな姿勢になる。集中力も粘りもないからろくに学ばない。体験量も薄いものになる。だから身につかない。その場限りをやり過ごすことになる。

私は、結果なんか気にせず、何を教えたか、何を学んだかなんて気にせず、ただひたすら意欲に着目し、その意欲が高まりやすいよう、工夫や挑戦、粘り強く取り組む姿勢などに驚いていれば、逆に結果までついてくると考えている。結果を気にしていた時以上の結果が出ると考えている。

結果を気にすると、「結果が出なかったらどうしよう」と怯える。まだ起きていもしないことにエネルギーを奪われ、疲弊する。まだ見ぬ結果だけ気にして、目の前の現象を観察しない。結果には興味があっても目の前のことに関心が失われているから。学びがないので余計に学習効果がない。

結果なんか気にせず、目の前のことに興味関心を持ち、「これをどう料理してやろう?」と、工夫を凝らすことを楽しみにすると、観察眼が段違いになる。目の前の現象からしゃぶり尽くすように情報を吸い取る。だから結果もついてくる。それどころか、ついでに多くの副次的な内容も膨大に学ぶ。

観察から学んだ、膨大な副次的体験は、後に他のことを学ぶときに「似てる!」「つながってる!」と気づき、体験ネットワーク、知識ネットワークが広がる。学びが強固になり、忘れないばかりか応用力がつく。結果を気にせず、目の前のことを楽しむからそれができる。

工夫や挑戦、発見に指導者が驚いていると、子どもはますます工夫、挑戦、発見をしようと企む。それが目の前の現象をマジマジと観察し、興味を持ち、知識ネットワークを広げる力になる。意欲だけに着目し、どうやったら意欲を高められるかにだけ、指導者は集中した方がよいと思う。

幼児教育で重んじられている、この「意欲」に着目した指導法は、小学校ばかりでなく、中学、高校でも適用すべきだと思う。はたまた社会人の指導でも、場合によっては高齢者介護においても。

実は、多くの母親が、子どもの就学前は「偉大な教師」。子どもをよく観察し、子どもが工夫し、挑戦し、発見する様子に驚く。子どもは新しい発見や工夫、挑戦があると「ねえ、みてみて」と言って驚かそうとする。就学前の子どもの母親が、自然に接してるあのあり方こそ、偉大な教師そのもの。

なのに小学校入学後、結果(成績)を気にするようになると、「偉大な教師」でなくなり、意欲の消火が上手くなってしまう。何を学んだか、成績はどうかなどの結果ばかり気にし、子どもの工夫や挑戦、発見に驚かなくなる。意欲の火を消してしまう。もったいない。

そのまま工夫や挑戦、発見に驚いていれば子どもはどんどん学ぶのに。目の前のことに関心を持ち、観察し、どう料理してやろうと工夫を
重ね、挑戦を続け、発見しまくるのに。それに時折気づき、驚くだけで、子どもの意欲は燃えさかるのに。

言葉の通じない赤ちゃんの時は、ただひたすら成長を祈るしかできなかったはず。祈ることしかできなかったのに、赤ちゃんは知らず知らずのうちに観察し、挑戦し、工夫し、発見し、ついに言葉を話したり立ち上がったりする。大人はそれに驚かされるばかりだったはず。

その接し方でいいのだと思う。赤ちゃんへの母親の接し方は、理想的。教えようとせず、学習したことをチェックしたり確認したりしようとせず、ただひたすらに子どもが夢中になって挑戦し、工夫し、発見する姿に驚いていた、その接し方こそ、「偉大な教師」そのものなのだと思う。

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