躾は親だけがするもの?
これをまとめたところ、躾(しつけ)は親がするもの、という思い込みが世間にあることに気がついた。しかし私はそうではないと考えている。親だけで躾は完結しない。子どもをよく観察し、適切に接してくれる第三者が必要だと感じている。
これは以前にあったことをまとめたものだけど、「躾は親がするもの」では限界がある。親しか注意せず、第三者が何も介入してこないなら、第三者はただの「背景」化する。決して自分に関わろうとしない背景。そんなものに子どもが気配りするはずがない。
https://kogusoku.com/archives/20311
赤の他人が背景ではなく「人間」であることに子どもが気づくためには、背景から人間が飛び出してくる必要がある。子どもに人間として接してくる第三者が。
「他人が注意すると嫌がる、怒る親がいる、だから」という意見もある。
私は、なんで注意する必要あるんかな?と思う。
公園で中学生たちが花火で騒いでいた。近所のオッサンがやかましいと言って注意しにきた。頭ごなしに上から目線で注意された子ども達は面白くなく、しばらくしたらもっと大騒ぎし始めた。
夜九時半になる頃、私の父が公園に向かった。
父は中学生に語りかけた。「お楽しみのところ悪いな。そこに病院が見えるやろ。あそこ、夜10時になったら消灯になるねん。はよ寝なあかんので、そのときにはやめたってくれるか。あと、眠くなるように、少し静かにしたってくれたら助かる」
中学生らは「わかりました」と素直に返事。静かになった。
子どもだから大人は偉そうに上から目線で注意してもいい、というのはどこから生まれた発想だろう?上から目線で叱ったら子どもは言うことを聞かねばならない、というのはどこから生まれた思い込みだろう?人間はそんなふうにできてるとは思えないのに。
攻撃的だと、子どもにしたら「災害」になる。「人間」として捉えられない。赤の他人は人間であると子どもが認識するには、人間として語りかけることが大切。そして今の日本に、最も欠乏しがちな存在。子どもをよく観察し、仮説を立て、声のかけ方を工夫する大人の存在がほしい。
子育てには、第三者の存在が欠かせない。赤の他人も人間であると感じさせてくれる人、その人たちとも接していきたいと思える存在、そんな人たちとの出会いがあってこそ、子どもたちは「第三者の海」に飛び込む勇気をもてる。
躾は親だけで完結しない。第三者にどう振る舞えばよいかは、まず第三者が人間として立ち現れる必要がある。そんな「第三者による子育てアシスト」をしてくれる人が増えることを祈っている。
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