祈り、待ち、驚く

「宿題をきちんとこなす」ことと「学ぶことを楽しめる」ことのどちらを優先するかといったら、私は間違いなく後者を選ぶ。学ぶことを楽しめる子は、生涯学び続ける。生涯学び続ける子は、生涯成長し続ける。生きていく力を失うことがない。だから、学ぶことを楽しむ力はとても大切。

しかししばしば学校では、宿題をきちんとこなすのがよい子、と定義される。子どもに宿題をさせるのは親の義務、と言われることもある。多くの親御さんはマジメだから、宿題をきちんとさせなければ!と意気込んでしまう。その結果、多くの子どもを勉強嫌いにしてしまう。

学校の先生はしばしば、「宿題もきちんとできないようでは、社会ではやっていけませんよ」と子どもに「呪い」をかけてしまう。こんな呪いをかけてしまったら、宿題をどうしてもやる気になれなかった子どもは、「僕、私は、社会不適格者なんだ」と、自分で自分に烙印を押しかねない。

そんな烙印を押してしまうと、やる気が湧くはずがない。むしろ「どうせ社会でやっていけないですよ」と開き直ってしまう。どうせ自分はダメな人間ですよ、とふてくされてしまう。ふてくされるから余計に気力がわかない。悪循環。やはり「呪い」と言って差し支えないだろう。

ところで、「子どもに宿題をさせなければ」と親が思ってしまうと、なぜ子どもはやる気を失ってしまうのだろう?それは、「やらされ感」が強まるからではないか、と思う。かえって来て早々「今日の宿題は?」マンガを読み始めたら「宿題はやったの?」と先回りを繰り返される。

こんな風に先回りされると、子どもはやる気を失ってしまう。もし親の言うとおりに宿題をしても、それは「親が言ったから」ということになり、手柄は親のものになってしまう。宿題をがんばったのは自分なのに、「親に言われてからしかやらない情けない子」ということになる。これでは面白くない。

「宿題をきちんとこなさなければならない」という「呪い」に親がかかってしまうと、子どもはしばしば勉強嫌いになってしまうようだ。子どもに「宿題は?」と言わずにいられなくなる。する子どもは、宿題をやるたんびに「親にやらされている怠け者」という自画像を感じて、不愉快になる。

不愉快になると楽しくなくなり、宿題がおっくうになる。手をつける気にならないから余計に宿題をしなくなり、だから余計に親が「私が言わなければこの子はちっともやろうとしない」となる。その結果、先回りせずにいられなくなり、先回りされるから子どもは宿題をやりたくなくなり。悪循環。

こんな悪循環に陥る原因が宿題であるなら、私は宿題なんかしなくていいと思う。いや、多くの子どもが勉強嫌いになる大きな原因が宿題なのが現実なので、いっそこの世から宿題が消えればいいのに、とさえ思う。宿題は、子どもが学ぶことを楽しむ力を奪う最大の原因のように思う。

面白いもので、子どもは、宿題のことを親が何も言わないと、ふとした拍子で終わらせたりする。「宿題もう終わったよ」と。その時、親は、さんざん自分の言うことを聞かなかった恨みを子どもにぶつけるのではなく、そんな過去のことをすっかり忘れて、驚き、喜べば。

子どもは、「親に言われなくてもやる子」という自画像を持つことができ、誇らしくなる。親が驚き、喜んでくれれば、その誇らしさがさらに倍加する。また明日も、親が何も言わないうちに宿題を終わらせて驚かせてやろう、と企む。こうなると、何も言わなくても宿題を終わらせる好循環に入る。

課題は、子どもが自ら動き出すまで待てるかどうか。赤ちゃんが立つまで、あるいは言葉を話し始めるまで、ひたすら待つしかなかったあの頃と同じように、祈るような思いで待つしかなかった、あの時の気持ちで、ひたすら待つ。子どもが自ら動き出すまで。

それまでは何も言わない。何も聞かない。先回りもしない。ただひたすら祈り、待つ。すると、いつしか、「たまたま」が起きる。子どもが能動的に動き出す瞬間が来る。赤ちゃんがある日、自ら立った時のように。言葉を始めて話したときのように。そしてその時、親はどうしただろうか?

手放しで驚き、喜んだのではないだろうか。それと同じことをすればよいのだと思う。子どもが「たまたま」能動的に動き出したことに驚き、喜ぶ。すると、子どもは「たまたま」ではなく、意識的に能動的に動き出すようになる。親を驚かすことができて楽しくなってくるから。

「驚く」といっても、こんな風な驚き方をするとろくでもない結果になる。子どもが「たまたま」、親が何も言わないのに宿題をやった時、それまで散々注意してもやろうとしなかった時のことを思い出し、ここぞとばかり復讐の言葉を出してしまう。「あら、雪でも降るのかしら」。

こんな復讐をされたら、子どもは腹が立って仕方なくなる。もう親を喜ばせよう、驚かそうなんて考えるもんか!となる。
親が思わず、こうした復讐心を抱いてしまうのも、子どもに「期待」してしまうから。でも、期待とは、子どもを自分の思うようにコントロールしたいという欲求のこと。

しかし、子どもを自分の思い通りに動かそう、ということ自体が、子どもの主体性を奪う行為。主体的に動くとは、誰からも何も言われなくても動く、という状態だろう。しかし親が思い通りに動かそうという魂胆を持った途端、子どもは「親に操られている」という気持ちを抱いてしまう。

自分じゃない人から操られている、という感じを持ってしまった途端、主体性は失われる。やればやるほど「ほら、親である私が言ったからこの子はやりだしたんだよ」と、手柄を自分のものにされているような気がして、子どもは自分の主体性を侵略され、強奪された気がしてしまう。

だから親は、子どもに期待してはいけないのだと思う。自らの思い通りに動かそうとしてはいけないのだと思う。しかし「期待してはいけない」と書くと、「見捨てる」という意味に取ってしまう人が少なくない。「どうせ私の言うことなんか聞かないんでしょう」とふてくされてしまう感じ。

しかしそれもまた、子どもへの「復讐」なのだろう。自分の思い通りに動かなかった子どもへの復讐。見捨ててやった、という復讐。みじめでつらい思いをしなさい、あなたは私の思い通りに動かなかったのだから、という報復。でもこうして考えると、なんかおかしいことに気がつくと思う。

「期待しない」代わりに「祈る」のがいいのかな、と思う。子どもをコントロールする力なんか親にはない、と諦めること。子ども自身が自ら動き出すまで、待つしかない無力な存在であると自覚すること。その上で、どうか子どもが自ら動き出しますように、と祈ること。

まだ立てもしない赤ちゃんに祈った時のように。言葉をまだ話せない赤ちゃんに祈っていた時のように。そして「その時」が「たまたま」現れるのをひたすら待つ。そして、その瞬間が起きた時、素直に驚き、喜ぶ。それ以外に親がやれることって、ないんじゃないかな、と思う。

でも子どもは、自ら能動的に動き出したとき、それに驚き、喜んでくれる人がいると、とてもうれしくなるものらしい。そして、それまでの経緯のことなんかすっかり忘れて、また親を驚かそうと企み、能動的に動こうと意欲を燃やすようになる。

子どもが能動性を高めるのは、親の存在が大きいように思う。子どもが能動的に動き出す「奇跡」に親が驚くと、子どもはますます能動的に動きたくなる。意欲が高まり、様々なことに挑戦する好循環が生まれる。宿題は、そのついでに済ませてしまうくらいに。

だから親は、宿題をきちんと終わらせようなんて考えるより、子どもが学ぶことを楽しめるように、その楽しむ力を失いませんように、と祈り、待ち、そして「たまたま」それが起きたら驚き、喜ぶ、それをしてさえいればいいのだと思う。というか、そのくらいのことしかできないのだと思う。

でもどうも、
祈る→待つ→驚き喜ぶ
というスタイルは、子どもの意欲を非常に高めるものらしい。子どもはますます能動的になっていくものらしい。それはやはり、子どもは親を驚かすことが大好きだからだろう。

子どもはもしかしたら、どこかで覚えているのかもしれない。初めて寝返りを打った時、親が驚き、その成長を喜んでくれたことを。初めてハイハイした時、親が驚き、その力強さに喜んでくれたことを。そして初めて立った時、手放しで驚き、喜んでくれたことを。

だから幼児は、「ねえ、見て見て!」が口癖なのだろう。昨日までできなかったことが今日できたところを見せて、親が驚き、喜んでくれる顔を見たくて仕方ないのだろう。ならば、親がそのスタンスをずっと維持していればよいように思う。すると、子どもは次々に挑戦し続けるように思う。

祈り、待ち、驚く。親にできることはそのくらいのこと。でも、「そのくらいのこと」が、同も思いのほか、とても大切であり、子どもの力になるらしい。そのことに、多くの親御さんに気づいていただけたら、と思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?