「ほめてはいけない」も極端すぎる、「驚く」形の「ほめる」なら構わない

私自身は「ほめる」という表現は使わないようにし、「驚く」という表現をするようにしている。しかし「ほめてはいけない」というアドラー心理学の主張は極端だな、と考えている。私は「驚く」類の「ほめる」なら全然構わないと考えている。

さっき外出先から家に戻ってきたとき、息子が自分から手を洗いに行った。親が何も言わないのに、自発的に。その能動性の出現に私は驚き、「えらいな」と言った。誰にも言われないのに自発的に行動したとき、私は「驚く」形で「ほめる」。このとき、「驚く」と「ほめる」はオーパーラップしている。

アドラー心理学では、「ほめる」はみんな「上から下の人間をコントロールしようとしている」ものとして否定している、という記事が多い(アドラー本人がそう言ってるのかはまだ未確認)。対等な言葉がけである「ありがとう」などの感謝の言葉は勧めても、「ほめる」は否定してるらしい。

でも、人間を対等だと考えるのも無理がある。人間は大人と子どもがいて、経験差は圧倒的。社会的地位にも残念ながら上下がある。「対等でなければならない」と考えることもずいぶん硬直的なように思う。現実は現実として、まずは虚心坦懐に観察することが大切だと思う。

他方、私は上下とか対等とかいう話をあまり重視していない。目の前の相手がやる気を出せばよい。楽しく能動的に取り組めるならそれでよい。そのための言葉かけはどんなものか、と考えているだけで、上下とか対等とかいう言葉に縛られたくないと考えている。

外出先から帰ってきたらまず手を洗う。これは親なり学校の先生方から教えられたこと。教えられるという出来事にはどうしたって上下は現れる。それは立場的な上下かもしれないし、経験差の上下かもしれないが、いずれにしろ上下がある。それは現実として認める必要がある。問題はその後。

毎日のように先回りして「家に帰ったら手を洗いなさい」では、いつまでも親なり先生なりの命令に従ってることになる。従属的で受け身な姿勢。でももし、親が何も言わないのに自発的に手を洗ったら。能動的にそれをやろうとしたその奇跡に驚かずにいられない。その驚きの言葉が。

「えらいなあ!」という、ほめ言葉の形でも全然構わないと思う。「大人から何も言われなくても自分からやるなんて、お前は本当に偉いなあ」と感心しても、全然構わないと思う。子どもはそのうち、そんなことは当たり前だという顔をするようになると思う。

ときおり、「何も言わないのにきちんと習慣化して、お前は偉いなあ」と、驚き、感心する形でほめても全然構わないと思う。ただ、私はこれまでの観察で、「ほめる」と言っても「驚く」形のほうがどうも子どもや部下のやる気が湧いてくるように思う。だから。

「ほめる」って言葉を使わなくても「驚く」って表現で全部代用できるなあ、と思って、最近は「ほめる」という表現を使わなくなった。ほめても構わない場面はたいがい「驚く」形だと考えるようになったから。

「驚く」って反応は、立場の上下、経験差の上下に関わらず、なんか誇らしげな気持ちになる。上の立場の人を驚かすことができたら「やったった!」という気分になる。後輩が驚いていたら「こんな程度で驚くようじゃ、まだまだだぞ」と思いながらも、なんか嬉しかったり。

だから、上下とか対等とか意識するのはナンセンスな気がする。驚かすことができたら、立場を超えて嬉しい。驚かすのに成功した人間は誇らしくなり、意欲が増す。驚く人がいたら、驚かす立場になった人は意欲が湧いてくる。

私は、上司や年上の人の様子に驚くと、その人たちがとてもアクティブになると考えている。「なーるほど、そんな方法がありますか!」と驚くと、あんな方法もあるよ、こんな方法もあるよ、と積極的に教えてくれる。ありがたい。

部下や子どもが能動的に行動したときに「よくこれに気がついたねえ!」と驚くと、次からもっと注意深くなり、わたしの気づかなかったごとにも気づいてサポートしてくれるようになったりする。ありがたい。

「驚く」形の「ほめる」なら、私は否定していない。「ほめてはいけない」と考えるアドラー心理学とは、異なる点。上下でなく対等に、なんてことをいちいち意識しない点も異なる点。相手が能動的に取り組んだ、その奇跡に驚く。すると人は能動的にどんどん動くようになる。私はそう考えている。

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