「勉強しないとどうなるか」という脅し

勉強しようとしない我が子を見て、「勉強しないとどうなってしまうか」という将来の話をし、なんとか勉強する気を起こさせよう、とする親は多い。気持ちは分かる。勉強しなければ損をする。我が子を思えばこそ、勉強しとけとアドバイスせずにはいられない、と。ただ。

「勉強しなければこうなってしまうぞ」という話は、子どもにとって脅しとなる。そうした脅しを聞いた子どもは勉強に対してどう思うかというと、「こんな脅しでもかけないと勉強しないと思われるくらい、勉強というのはつらくて面白くないんだ」という裏メッセージを受け取ってしまう。その結果。

ますます勉強するのが嫌になる。脅さなければ勉強するはずがない、という親の思いを感じ取って、ますます勉強に対して気が重くなる。ほとんどの子はこのためにますます勉強が嫌になり、なるべく逃げようとする。逃避しようとする。

ごくたまに例外がいる。もともと勉強ができる子。自分は良い成績がとれるから、そこまで勉強に拒否感がない。そして「勉強しなければ大変なことに」という脅しをエネルギーに変えて、ますます勉強に励む。ただし、成績の良いうちは、という限定付き。

「勉強ができなくなったらどうしよう」という恐怖感を持った子は、ちょっとしたつまづきで「ダメかもしれない、転落するかもしれない」という恐怖に取りつかれる。すると、手につくものも手につかなくなり、実力を発揮できなくなる。

「勉強できなくなったらどうしよう」という恐怖心、「自分はもうダメ人間になるのかも」と自らに押した烙印をはがせないのでは、という恐怖が、精神的エネルギーを吸い取り、疲れさせ、ますます勉強への意欲を失い、ついに心の糸がプツンと切れてしまう。

私は、学ぶことは楽しいことだと考えている。他方、勉強は「勉(つと)めて強いる」という字のように、何かしら強制されてやるもの、というニュアンスが強い。人間はどうやら、強制されることが嫌いな生き物のようで、強制されるとやる気を失う。

だから、「勉強しないとどうなるか」なんて脅しをしないほうがよいように思う。そんな脅しをしたら、学ぶことはつらいこと、苦しいこと、面白くもなんともないこと、と大人が考えている、という裏メッセージを伝えることになってしまうから。

でも子どもはちっとも勉強しようとしないじゃないか、だから勉強しろと言いたくなるんだよ、という親御さんは多いように思う。ここで私はぜひ、子どもをよく観察していただきたいと思う。

ただ「勉強しろ」と言われても、大半の子は、自分は何ができて何ができないのか、何が分かっていて何が分からないのか、分かっていない。速度の計算方法でも、距離を時間で割るのか時間を距離で割るのか、曖昧な子は過半数。2分の1の確率で正解となる感じ。

そんな子に「勉強しろ」と言っても、意味不明な呪文を読まされるようなもので、苦痛でしかない。わからないものをいくら読んでもわからない。勉強しろ=苦しめ、と言っているように感じる。これではアドバイスしたことにならない。

私は、小学1年生からやり直すことをお勧めしたい。その際、「できるのは当たり前」という思いを、親は捨てて頂きたい。「できないこともあって当然」と構えてほしい。そのうえで、子どもが解けたら「お、やるじゃん」と軽く驚く。

すると子どもは、「このくらいできるよ、バカにしてもらっちゃ困るよ」と、ちょっと得意げな面が出てくるように思う。やがて、そんな子も、つまづくところが出てくるだろう。小学校3年生以降の算数は、意外と侮れない。「え?そうだっけ?」というものに出会う。

筆算は、ケタを間違わずに計算するの、意外とややこしい。10.2÷3.3を計算するとき、答えのケタを間違えて0.3…にしてしまう子が結構いる。ケタをミスらないコツをつかんでいなくて、それが中学校の成績に尾を引いているケースも多い。

でも、小学1年生から順々に教科書の順番に従って学んでいくと、誤ったクセがついていることに気がついたりするし、「できる」と「できない」の境界線のことは、気がつきさえすれば「できる」に簡単に変えられる。その瞬間、「やったね!」とハイタッチすれば。

子どもは、「できない」を「できる」に変える快感を思い出す。そしてその快感こそが、学ぶ楽しみだったの思い出す。
勉強が嫌いなのは、いったいどこから手を付けたらいいのか見当がつかず、茫然自失していることが原因のことが多い。だから「勉強しろ」という命令はほぼ意味がない。役に立たない。

それよりは、「できる」のところまで立ち戻ること。そして「できる」で足場を固めながら、「できない」を一つ一つ「できる」に変えていく。そうして着実に進むと、それはテレビゲームの面をクリアしていくのと同じような楽しみとなる。

ゲームオーバーになったら、再度初めからやり直しになるのと同じように、でも初めからやり直す場合、「次こそは、さっきつまづいたあの場面で別のアプローチを試してみよう」と思うのと同じように、学ぶのもそうしたらよい。

「できる」で足固めしながら、「できない」に挑戦し、「できる」に変えていく。そうした着実な進み方をすると、学びは楽しくなる。自分の成長が感じられて。ゲームをクリアするのと同じ快感を覚えて。

だから、「勉強しなければ大変なことになるぞ」なんていうムダな声掛けをするよりは、一緒に「いやあ、『できない』を『できる』って楽しいなあ!」を一緒に味わってもらったほうがよいように思う。

ただ、これまでさんざん「勉強しろ」といってきてしまった親は、すでに自分の中にその言葉を言ってしまうクセがついてしまっているし、子どももすっかり警戒心を持ってしまっている場合がある。この場合、上記のように小学1年生からやり直すのはちと厳しいかも。

そういう場合は、近所のお兄さんお姉さんに頼んで、小学1年生からやり直すのを手伝ってほしい、『できない』を『できる』に変えた瞬間、驚いてほしい、とお願いするとよいかもしれない。第三者だと、子どもも素直に聞くことができる場合が多いから。

学ぶことの楽しさを思い出した子どもは、放っておいても勝手に学ぶ。楽しいから。「できない」をみつけたら「できる」に変えたくなる。「知らない」があったら「知っている」に変えたくなる。それが楽しいから。学ぶことは楽しいから。

学ぶことを楽しむ子は、結局道が開ける。学ぶということは、自分の能力を開発することだから。できなかったことをできるようにするという、問題解決でもあるから。だから、学ぶことを楽しむことは、その子にとって最強の武器になる。

しかし、この「結果」だけを見て「そうか、勉強すれば能力は伸びるし出世はするしいいことづくめじゃないか」と考え、「だから勉強しなさい」では、「そんな果実を得るためには、このつらくて苦しい勉強に耐えなさい」という裏メッセージになってしまう。

「勉強した結果が欲しい」という欲が先行してしまうために、かえってその結果が得られなくなってしまう。それよりは、いま、目の前の「できない」を「できる」に変えるその瞬間を楽しんでいたら、結果的にその結果が得られる。皮肉な話。

ゲームをする子は、「いま目の前のこの難局をクリアしたい」と、今を楽しんでいる。学ぶことも同じ。いま、気になっていることを知りたい、できるようになりたい、それを繰り返していけばよいだけ。

一つには、多くの親御さんが「机に向かってする勉強」だけを学びだと勘違いしていることに原因があるのかもしれない。そのために机に縛り付けることが目的になってしまって、学ぶ意欲が子どもに芽生えるかどうかは二の次になっているのかも。

私は、学びはどんな形でも構わないと思っている。机に座る座学だけが学びだとは考えてない。アニメの中でもマンガの中でもテレビの中でも学べる。料理をしていても、砂遊びをしていても、水で遊んでいても。ありとあらゆる場で学びは存在する。

水一杯のペットボトルを逆さにしても、口をお風呂の水面につけると、水が出てこない。不思議!ホースを使って下に垂らすと、いったん水面の上に上がってるのにお風呂の水が外へと流れ出る(サイホンの原理)。不思議!

じゃがいもの皮をむくと、芽のところがくぼんでむきにくい。どう刻みを入れたら、ジャガイモを無駄にせずに済むのか?ミカンの皮は上からと下から、どっちからむくと白いのがきれいにとれるのか?そんなところにも学びは転がっている。

日常の中に不思議を見つけること。そして「なんでだろう?」と子どもと一緒に不思議がること。すると子どもはその不思議を覚えていて、どこかで出会ったとき(それはマンガだったりアニメだったり、本だったり教科書かも)、「そうだったんだ!」になる。

日常の中で学んでいるから、本を読んだ時に面白くなる。普段から不思議に思っていたことの答えがそこにあったり、ヒントが転がっていたりするから。だから本を読むのが余計に面白くなる。日常のあらゆる場面を学びにすると、本も教科書も面白くなる。

学ぶことを楽しむこと。これが一番ではないか、と思う。そして子どもが学びを楽しむためにはどうしたらよいか。子どもの身になって考え、一緒になって不思議がり、そして驚くとよいのだと思う。子どもが自らつかみ取る、学びの奇跡に。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?