水を丸くしたり四角くするには?

水を丸くしたり四角くするにはどうしたらよいだろう?丸くなれ!四角くなれ!と命じたり、殴ったり蹴ったりすればよいだろうか。命令しても水は動かず、殴ったり蹴ったりしたら飛び散るだけだろう。
簡単な方法がある。丸い器、四角い器を用意すること。水はひとりでに器の形に納まるだろう。

お風呂に入れよ、と言ってもちっとも動かない子どもたち。今の遊びに熱中してる子どもたちからしたら、お風呂に入るとは、遊びを中断するということ。当然遊びを選択する。このままではお風呂に入らない。ぞこで私は一計を案じた。

「誰とお風呂に入るか、次の三つから選べ。1、お父さん。2、お父様、3、オトン。さあ、どれだ!」
子どもたちは一斉に「おかーさん!」
「おかーさんは選択肢にない!さあ、三つから選べ!」
「いやー、おかーさーん!」
「待てー!」
お風呂に慌てて駆け込む子どもたち。一人取り残される私。

私が何か言い出したことで、子どもたちは「お父さんの思惑にいかに乗らないか」ゲームの中に放り込んだ。三つの選択肢はいずれも父親しかないので、お父さんが一番悔しがるのはお母さんとお風呂に入ることだ、と察するように仕向けた。こっちの「ゲーム」の方が面白いから乗ってきた。

小学校に入った息子。宿題をやった?と先回りすると、やがて息子は宿題をしようとしなくなった。私とYouMeさんは二人で相談し、「宿題をしなかったら親が謝ろう」と腹をくくり、宿題のことは一切言わないようにした。息子は宿題をせず、家では好きなことばかり。そんな日が十日ほど続いた。

ある日、何もいわないのに息子が自分から宿題をした。YouMeさんは「へえ!あんた、何も言われないのに自分からやったん!」私が帰宅してYouMeさんからそのことを聞き、私が「へえ!誰も何も言わんのに!」と驚くと、息子は嬉しそうにピョンピョンはねた。
以後、何も言わなくても宿題をやるように。

ただし、放置ではない。息子は「今日、もう宿題終わらせたよ!」と報告してくれた時、「ええっ!やったん!何も言われんのにようやるなあ」と驚くと、してやったりと嬉しそう。
子どもは本当に、親を驚かすのが大好き。宿題は親を驚かすゲームになっているのだと思う。

子どもに宿題をやれということは、水を殴って丸くなれ、四角くなれ、というようなもの。「宿題はないの?」「宿題はもうやったの?」と尋ねるのも、言い方が優しいだけで、宿題をやれ、という圧を感じる。これでは「やらされてる感」(受動感)が強く、楽しくない。楽しくないからつらい。

そこで私たち夫婦は、宿題に能動的に取り組むと楽しくなる「器」を用意した。親は何も言わないこと。ただ待つこと。宿題をやるなんて思わずに。親が先生に謝ればよい、と腹をくくって、期待せずに。しかし期待しないといっても、子どもを見捨てたり切り捨てるのではなく、どこか祈るような気持ちで。

すると、先生からきつく言われたからか何なのか、自分から始めた時が現れた。この「たまたま」が起きたとき、次のような言葉をかけたら台無し。「あら、今日は宿題やってるの?雪でも降るかしら」つい、普段からやかましく言っても聞かないと恨んでる場合、こうした皮肉な言葉が出がちになる。だから。

普段は何も言わず、宿題をしなくても何も思わないよう、子どもが楽しそうに過ごしていればそれでよし、という体勢でいた。そんな中で子どもが能動的に宿題をしたら、親としても素直に驚く。宿題を自分からやる要素を何も用意していなかったのに、自分からやりだしたのだから。

宿題をしたことに驚くのではなく、自分から能動的に動き出したことに驚く。すると、子どもは「能動的に課題を解決すれば親を驚かすことができるんだな」と気がつく。すると、能動的に物事を解決していくことが、親を驚かすという、楽しい「ゲーム」に変わる。

これは、赤ちゃんへの親の接し方を徹底して真似た姿勢。まだ言葉も話せず、歩けもしない赤ちゃんに、言葉を話せ!立て!などと命令してもムダ。言葉が分からないのだから。だから、親はただひたすら待つしかない。できるのは祈ることくらい。すると。

赤ちゃんが片言を口にしたり、転びながらも立とうとしたとき、思わず親は驚く。教えもしないのに話そうとすることに。教えもしないのに立とう、歩こうとすることに。そしてこの「驚かす」ことこそが、子どもにとって何より楽しいゲーム。自分の成長や発見で親は驚く。この楽しいゲームが大好きになる。

幼児が「ねえ、見て見て!」と声をかけることが非常に多いのは、親を驚かせたいから。自分の工夫や努力、苦労に驚いてほしいから。小学校に入るまでの子どもは、親が驚いてくれるものだから、ものすごい勢いで学ぶ。習得していく。
しかし小学校に進学したとたん。

親は驚かなくなる。学校から出された課題をきちんとこなしているか監視する、まるで牢番のようになる。やってるのが当たり前、やっていなければ牢屋に入ってなさい!と懲罰的な接し方。何か課題をクリアしたら、その都度驚いてくれていた親はもういない。牢屋の中で牢番の言うことに従う生活に。

宿題は、親を牢番に変えてしまう大きなきっかけとなる。多くの親御さんはマジメ。先生から出されたものはしっかりこなさねばならないと考える。学校もしばしば「宿題をするよう、保護者がきちんと指導して下さい」なんてことを入学時に伝える。これにより、親は驚き屋から牢番に転職する。

親は、宿題をやったかどうかを監視する牢番に。もし宿題をしなかったら不機嫌になり、怒り出す牢番に。宿題をしたらほめてくれるけど、模範的囚人としてほめられたような感じ。子どもが能動的に取り組んだことに「驚く」親がいなくなってしまう。これが、勉強嫌いを生むメカニズムだと考えている。

私は、宿題をリデザインした方がよいように思う。学校は保護者に「子どもがプリントを持って帰ってくるかもしれませんが、それは宿題ではありませんし、やらなくてよいものです。けっして、宿題だと思って強制することはしないで下さい」と口酸っぱく伝えておく。その上で。

教壇の上にプリントを置いて「やりたい人は持って帰ってよーし。もしやってきたら、先生に見せてくれると嬉しい」と言って、持って帰るかどうかは子どもに任せる。
翌日、やってきた子がいたら「やってきたの!やらなくていいって言ったのに、へえ!」そんな風に驚く様子を見せたら。

小学一年生くらいだと「このプリントをやってきたら先生が驚く」ことを察し、我先にプリントを持って帰るのでは。翌日、みんながやってきたら、一人一人に「えらい!」「やるなあ!」と驚きの声を伝えると、子どもはやった!と、心踊るように思う。プリントは先生を驚かす楽しいものになるのでは。

これまでの学校教育は「言われたことはきちんとやる」という型にはめることが多かった。個性の尊重、ということで学校はかなり変わってきたけど、まだ宿題に関しては工夫が少ない。また、親は型にはめる教育を受けてきたので、つい我が子も型にはめ、「模範的囚人」に育てようとしてしまう。

しかし「模範的囚人」は、与えられた環境に従順に従うことを覚えた受動的な存在。能動性はむしろ奪われている。いわゆる「指示待ち人間」と化している。これから求められている人材は、能動的に動く人間であるはずなのに。宿題がいまだに「模範的囚人」を生むメカニズムとして働いている。

小学校に入るまでの、子ども自身が能動的に取り組み、課題を解決していくあの姿勢を、小学校以降も続けたとしたら、ものすごい勢いで学ぶように思う。大概の親は、小学校以前だと素直に我が子の成長の速度に驚かされる。驚くのは結果のようだが、子どもが能動的に学ぶ大きな要因でもある。

私は、小学校だけでなく、中学校でも、幼稚園や保育園で行われている子どもの指導法を導入した方がよいと考えている。幼稚園や保育園は、子どもが自ら能動的に学ぶよう、仕掛けをよくデザインしている。でもまだまだ、学校は子どもを受動的にしてしまう仕掛けが多い。

私はいっそ、授業もやめてしまえばいいかも、と思っている。今ではタブレットなどが全児童に配られている。いろんなアプリがすでにあり、全学習内容の授業の動画もすでにあるらしい。ならば、その動画を見れば、全員同時に同じ授業を受けるスタイルは必ずしも必要ではない。

先生は一人一人の進捗具合を把握し、次の課題を指し示すコーディネーターとなり、課題に能動的に取り組む子どもの様子に驚く「驚き屋」になってはどうだろう。多くの子どもが、進んで学び出すように思う。だって、先生が驚いてくれるのだから。

子どもが能動的に学ぶ環境ってどんなもの?それを常に問い、試行錯誤を重ねていくことが大切だと思う。学ぶことが楽しく面白いゲームになるようなリデザインを。それは学校も家庭も巻き込んだ、壮大なゲーム。保護者も先生も参加して、ワイワイガヤガヤ楽しくやっていけたらと思う。

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