もし私が宿題をリデザインするとしたら
宿題やらなくても何も言われないなら、やらなくていいんじゃないですかね。私は宿題の学習効果をほとんど信じていなくて。本人が嬉々として取り組む場合を例外として、イヤイヤ取り組むのは全くと言ってよいほど頭に残りません。この世から宿題が消えればいいのに、と思っています。
もし私が学校の教師なら、あらかじめ保護者には
「宿題はやらなくていいです。だから決して「宿題はやったの?」なんて聞かないようにしてください。やらなくていいんですから。ただ、たまたま宿題をやる様子を見つけたら驚いて下さい。何も言わないのに自分から勉強するなんて!って。」
「宿題は、子どもが自発的に取り組んだときに親が驚いてくれる、という体験を生み出すための装置として出しているものであり、強制しては目的とは正反対になります。だから決して「宿題は?」とか、「しなくていいの?」とか、「宿題しなさい」なんて決して言わないで下さい」と頼みます。
その上で「教壇の上にプリント置いときます。欲しい人は持って帰ってよし。本当にやらなくていいからね。でももしやってきたら、先生丸つけするね」と言って放っておきます。
そしてたまたまやってきた子がいたら「やってきたの!」と驚きます。そしたらきっと、子どもは先生が驚いたのを見て喜ぶでしょう。
家でやったら親が驚き、学校に提出したら先生が驚き。でもやらなくても誰も何も言わない。こうした構造を作れば、多くの子は宿題をやりたがり、学ぶことが楽しくなると思います。子どもは大人を驚かせるのが大好きですから。驚かすのはとっても楽しいゲームですから。
いつも同じようでは飽きますから、「今日もプリント置いとくけど、今日のは難しいから、たぶん無理だと思う。まあ、やってみたい子はやってみて。まず無理だと思うけど」と挑発すると、子どもは挑戦したくなります。テレビゲームのラスボスを倒したくなる気分で。
もしやってきたら「よくもまあ、こんな難しいのに挑戦しようと思ったな!」と、挑戦しようとしたこと自体に驚き、正解不正解などどうでもよい、という姿勢を明確にします。こうすれば、宿題は楽しいゲームに変わると思います。
学校と家庭で、いかに学ぶことを楽しめる環境にデザインするか。そのためには、宿題はやってもやらなくても構わないものだというコンセンサスをしっかり家庭と学校で共有し、親も先生も決して宿題することを期待しないという構造を作る必要があります。その上で。
子どもが自発的に取り組んだ時があったら驚く。やらなくても何も言わない。またたまたまやったときがあったら驚く。ただそれだけを心がける構造を用意できたら、宿題はとても楽しいゲームに変わると思います。どこかの学校でこうした社会実験してほしいですね。
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