「言葉から言葉を紡ぐ」ではなく「身体から言葉を絞り出す」

90年代末に国家1種の試験を受けたときの長文問題が興味深かった。難しい専門用語が散りばめられ、有名な思想家や哲学者の名前がてんこ盛り。すごく難しいこと書いてる風。しかしその文章の骨子は最初と最後の数行にしか書いてなかった。文章の8割はどうでもよい内容だったことに衝撃を受けた。

途中の8割は、結論とは逆の主張に寄り添う内容だった。これを読んだら、敵対者の人は「分かってくれてるやないか、しかも有名な哲学者まで引用して、補強までしてくれてるやないか」と勘違いしてしまう内容。しかし最後の二、三行でそれまでの考察を全部ひっくり返して結論する。これが官僚言葉か!

今思うと、最近話題のChatGPTとそっくり。言葉から言葉を紡ぎ出しているだけで、意味内容を吟味しながら言葉をひねり出している訳ではない。だから空疎な文章になるのだろう。文体としてはもっともらしいのだけど、中身がない文章になるのは、言葉から言葉を生むから。

私くらいの世代までは、こういう中身スカスカな、空疎な文章を紡ぐのがうまい高学歴の人が多かった。なんか難しそうなことを言ってるけど、中身がない。何も言ってない。表面上はもっともらしいのだけど。原因は、言葉から言葉を紡ぐやり方をとっていたためだろう。

他方、一人旅で出会ったおじいさんは、尋常小学校を出ただけの学歴のない人で「難しいことはわからん」と仰っていたけど、その人の口から出てくる短い言葉は経験と知恵が凝縮されていて、深く考えさせられることが多かった。一体この違いは何なのだろう?

私の知人は「身体感覚をくぐり抜けた言葉しか信じない」という。なるほど、と思う。私も、身体から絞り出される言葉を紡ぐように心がけている。ついつい言葉と言うのは、言葉から言葉を引きずり出す傾向がある。けれど、身体と切り離された言葉と感じたら、一度身体をくぐらせてからにしたほうがよい。

たとえばアダム・スミスと来たら「神の手!」と、聞きかじった言葉がスッと出てくる。もう少し慎重な人は「スミスは神の手なんて言ってないよ、『見えざる手』だよ」と知ったかぶりを発揮できるかもしれない。しかしそれらもまだ、言葉から言葉を生成しているだけ。

実際に「諸国民の富」を読めば、新自由主義の人たちが言うような内容では全然ないことがわかる。その上でスミスは何を言いたかったのか?を、自分の身体通じてから紡いでみると「小魚煮るのにつついたらアカン、ということやな」となった。

老子の言葉に「大国を治むるは小鮮を烹(に)るがごとくす」というのがある。小魚を煮るのにつついてばかりいると煮崩れしてしまう。小魚を煮始めたらあまりつつかないようにするように、国を治めるのもあまり手を出しなさんな、という意味。スミスの言いたいこともここにあるらしい。

スミスの言ってることを紹介するにしても、スミスの言葉をコピペして伝えるだけではChatGPTと同じ。それよりは自分の身体をくぐらせ、身体から出てくる言葉を紡ぐ。そのほうが言葉は面白くなるように思う。

ChatGPTのようなものが出てきた以上、言葉から言葉を紡ぐやり方は、もう価値がない。しかしChatGPTには身体がない。そのため、しばしば空疎な言葉を連ねることになる。人間にまだまだ優位なのは、身体をくぐらせた言葉を紡ぐこと。身体から絞り出した言葉を紡ぐこと。

これから磨くべき力はそこにあるのではないか。ますます言葉を、身体感覚と結びつけた形にすることが求められるようになる気がする。

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