討論(相手の論を討伐する)から築論(建設的議論)へ

相手を論理で言い負かすことを「議論」だと考えている人は少なくない。日本では議論(discussion)と討論(debate)の区別があまりない。これは海外でも同様らしいけど。
ただ、「建設的議論」と言っても「建設的討論」とは言わないように、討論は「相手の論を討つ」という攻撃的なものと考えてよさそう。

で、「議論をしましょう」となると、討論のことだと考えて理詰めで相手を追い詰め、一人勝ちすることを「議論」だと考える人も結構いて、「議論」と言う言葉は実に紛らわしい。討論なのか建設的議論なのかはっきりしない。そこで私は、建設的議論のことを「築論」と呼びたいと思っている。

しかし世の中には「声の大きな人」がいる。建設的議論(築論)をしようとしているのに、誰かが異論をはさむと「あ、それはだね」と話の腰を折り、自説をまくしたてる。それに反論する人がいても「それについては」とまた自説をまくしたてる。そのうち、みんな根負けする。声の大きな人勝ち。

築論(建設的議論)を進めるには、声の大きな人をどうにかしなければならない。そうでないと、発言していない人から意見を出してもらうことはできない。そんなとき、よい方法がある。「ミツバチの会議」。

ミツバチの研究者だったトーマス・D. シーリーは、ミツバチが極めて民主主義的に、新しく巣作りする場所を選定することに気がついた。その方法とは、「ダンスは一回だけ」。
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ミツバチは、巣作りによさそうな候補地を見つけると、巣の前でダンスを踊る。「あそこに素晴らしい巣の候補地があるよ!」すると、そのダンスを見たミツバチがどれどれ、と見に行く。確かに良さそうだと思ったら、巣の前でブンブン勢いよくダンスを踊る。そうでもなければそれなりに。

すると、本当に巣作りによさそうな場所はダンスを踊るミツバチが増えていき、そうでもなさそうなところはダンスを踊るミツバチが減っていく。この際、面白いことに、ダンスは1匹のハチは1回しか踊らないのだという。投票権は1匹に1つだけ。

やがて、多くのミツバチが踊る候補地に決定し、集団全体でその場所に移動する。
巣作りの場所は、その集団の運命を決める。集団が栄えるのも滅びるのも、この営巣地次第。それが非常に民主主義的な形で決められる。しかも、その決定は実に素晴らしいのだという。

ミツバチが民主主義的に決めた営巣地は、その界隈で最も理想的な場所なのだという。見劣りする場所を選ぶことは決してない。どうして民主主義なのに、そんなに賢明な決断ができるのか?著者は考えた。

著者のシーリーは、自らが運営する大学の教授会でこの「ミツバチの会議」を採用することにしてみた。大学教授は曲者ばかり。声の大きな人が持論を展開し、異論を全部攻撃、排除しようとすることしばしば起きる。こうなると、声の大きさで会議の行方が決まってしまう。そこで。

一人ずつ決まった時間、たとえば1分間ずつ順番に意見を述べてもらうことにした。声の大きな人は、自分と違う意見が出てくると「今の意見には賛同しかねる」と自説を披露しようとするけれど、シーリーは「あなたの番まで黙っていてください」と制止する。すると、声の大きな人も待つしかない。

このやり方だと、どれだけ声の大きな人でも決まった時間までしか話せない。その後、ふだん意見を全く言わない人が、場をハッとさせる意見を述べることがある。それで空気が一変する。「その方がいいなあ」とみんなが思い、うなづく人が多いことに、声の大きな人も焦る。

こうなると、限られた時間内で攻撃するのではなく、なるべく多くの人に耳を傾けてもらえそうな意見を述べるように心がけるしかない。みな平等に、同じ時間しか話せないのだから。すると、何周か話をするうち、「落としどころはここだな」というのがみんな見えてくる。決を採ると、満場一致するという。

私はしばしばこの「ミツバチの会議」を取り入れる。これをすると、声の大きな人、論理で圧倒しようという人も、調和的な話し方に変わらざるを得なくなる。建設的議論、つまり「築論」にもっていける。

私が思うに、まだ人類はミツバチのような知恵を持てていないように思う。近年、賢くて優れた人間に独裁をしてもらえばいいんだ、という意見がよく聞かれていたが、そもそも独裁することになった人間が賢くて優れている保証がない。愚かだったら悲惨。さりとて。

まだまだ、民主主義の方法はバージョンアップできるように思う。現在の民主主義のやり方は時間がかかる、という話は、一定の説得力がある。しかしミツバチは限られた時間で次の営巣地を決める。集団の運命を決める重要な決定を、民主主義的に決定できる。ミツバチすげえ。

民主主義的でありながら、賢明な決断が速く下せる方法が、ミツバチによって実践されているのなら、人間にもできないはずはない。しかしまだ工夫が足りないようには思う。もっともっと、私たちは工夫の余地があるように思う。

「ミツバチの会議」による「築論」は、その一つの方法ではあると思う。参加者全員の声を拾い上げ、衆知を集める。たった一人の人間の思いつきではなく、多くの人の気づきを拾い上げ、見過ごしてはいけないものをすべて考慮した賢明な判断は可能だと思う。

「群盲象をなでる」ということわざがある。目の見えない人がゾウをなで、尻尾を握った人は「呼び鈴のヒモだ」足を触った人は「柱だ」鼻を触った人は「大きな吹奏楽器だ」耳に触れた人は「カーテンだ」背に乗った人は「ちょっとした丘だ」牙を握った人は「武器だ」。みんないうことが違う。

もしここで独裁者のように、声の大きな人が「お前らバカか!呼び鈴のヒモ以外にあるわけないだろう!オレが触っているんだから間違いない!」と大声で圧倒したら、「そうです、呼び鈴のヒモでございます」になってしまうかもしれない。すると、ゾウという真実にたどり着けなくなってしまう。しかし。

誰か一人が「ちょっと待って、俺たち、同じものを触っているんだよね?」と声をかけたとしたら。これはもしかして、みんな一部を触っているだけなのでは?と気がつく。さらに一人ずつ、詳しく報告してもらったら、紐の先に毛があるとか、柱に出っ張りがあるとか、だんだん解像度が上がっていく。

やがて「これ、うわさに聞くゾウじゃないか?」という、妥当な推理にたどり着く。たった一人の声の大きな人間ではたどり着けなかった真実に、たくさんの人がかかわり、全員の声を拾い上げることで、ゾウという真実にたどり着くことが可能になる。

なお、「馬鹿」という言葉には語源となる逸話がある。秦の2代目皇帝の前に鹿が引きずり出された。しかし趙高はあえて「馬だ」と言った。ほかの重臣たちは趙高を恐れて「馬です」と答えた。皇帝よりも怖い存在であることを、趙高はこの一件で確認した。

趙高は、いわば「声の大きな人」だった。それによってシカをウマと言い張った。まさに声の大きな人、独裁者だった。独裁者であった趙高が「馬鹿」の語源を生んだということは実に興味深い。

「群盲象をなでる」ということわざからも見えるように、私たち一人一人は、わずかなことしか認識できない。そのわずかな事実をすべてだと考え、声の大きさで言い負かそうとすると、それは趙高のような「馬鹿」になってしまう。しかし、他の人の意見に耳を傾けると。

自分一人ではたどり着けなかったかもしれない事実、「ゾウ」に気づくことができる。民主主義とは、たった一人の人間では達成できないことを、「衆知」で達成しようというものだ。

これこそが科学の営みでもある。たった一人ができる実験・研究はわずかなもの。けれど、多くの人が研究し、論文を出すことで、たくさんの論文を見比べて見えてくる事実がある。「もしかしてこれは?」まさに「群盲象をなでる」と同じメカニズムで科学は進む。

ある哲学者は、「1本の鉛筆を作れる人間はこの世にいない」と言ったという。鉛筆みたいな単純に見える製品でも、どの木材を使えばよいのか、木はいつ切ればよいのか、何年材木を寝かしたらよいのか、削り方は?芯の材料は?ノリはどう混ぜるの?これらをすべて知っている人はいない。

人類は、分業することで現在の文明を保っている。鉛筆の芯の材料を掘る人は、どうやって加工するのかを知らない。鉛筆の芯の形に加工する人は、これがどうやって木材の中に組み込まれるのか、自分ではやりたくてもできない。鉛筆を作れる人はこの世にいない。

私たち人類は、一人の人間があたかも1個の神経細胞のごとく、そして人類全体は、そうした神経細胞が集合した脳のごとく、分業しつつ統合しつつ営まれている。私たちはそもそも、分権的で民主的な生命活動を行うようにできた生き物だと言える。しかし。

まだまだ工夫の余地がある。ミツバチにさえ勝てていない場面が数多い。私たちは、もっともっと、知恵をうまく集積し、決断していく賢明な仕組みを考えていく必要がある。バージョンアップが必要。

「築論」や「ミツバチの会議」、「群盲象をなでる(科学的推論)」などは、そうした知恵の一つではある。まだまだ見つかると思う。それらをブラッシュアップし、ミツバチに負けない生命体になることが、人類の新しい挑戦なのかもしれない。

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