面白き事も無き世を面白く

父は若いころ、お金が無くなることの恐怖心が非常に強かったという。そんな自分が嫌で、徹底した自己省察を行った結果、お金を拒否するような生き方を貫くようになった。私は亡父のことを大変尊敬しているが、どちらにしろお金を意識しすぎだったな、と、トシをとって思うようになった。

お金のことを心配しすぎて、お金のことばかり考えているのもつらい。お金のことを考えるのが嫌になって拒否しても、それはやせ我慢の部分があってつらい。どちらにしろ、お金のことで苦しんでいる気がする。父は若いころ、お金で苦労したのでやむを得ない部分があるのだが。

お金は、食事と同じようにとらえたほうが良いのかもしれない。私たちは、空腹に苦しむと食べ物のことばかり考える。他方、満腹になるともう食べ物のことは考えなくなり、別のことをしたくなる。腹が減れば食べ、腹が満ちれば他のことをする。お金もそれでよいのではないかと思う。

食べることがままならない子供時代を過ごした人は、自分のことを、食べることに関して意地汚い、と自己評価することがあるらしい。飢えた記憶が、食べ物のことを考えずにいられない思考回路を刻み込んでしまったからかもしれない。お金もそうした面があるのかもしれない。

お金がないと、ともかくつらい。私は最初に通っていた大学で、ある日、財布の中に110円しかなくなってしまった。1杯60円の紙コップのコーヒーを、明日は飲めなくなる。それで大学を中退した。友人が食事や飲み会に行っても、私は行けなかった。お金のないのはやはりつらい。

で、トラックターミナルで働き、ある程度お金を稼いで、大学を受け直す算段が付いたので京大を受け直すことになったのだけれど。京大に進んだら進んだで、塾を運営しなくては学費と生活費が稼げない。剣道部に入るのは断念せざるを得なかった。お金がないとやりたいことがやれない。

が。
それらは私に与えられた条件だから仕方ない。私もまだまだ子どもだったから、最初は不満が強かったが、どこかで「しゃーない」と腹をくくり、目の前のことをそれなりに楽しむようにした。楽しまないと損だしね。

考えを変えるきっかけは、「荘子」の一節。ある醜い男が、様々な生き物に生まれ変わる夢を見た。それも、人から忌み嫌われる醜い生き物ばかり。そしてどの一生も、なかなか散々な目に遭うものばかり。悲惨。

夢から覚めると、隣に友人が座っていたので、夢のことを話して聞かせた。友人は「それで、君はどう思ったのだね」と尋ねた。すると醜い男は「ああ、それはそれで楽しませてもらったよ」と答えた。

太い!太いなあ!そうか!悲惨だったら自分の不幸を嘆き悲しむしか選択肢がないと思ってたけど!

その一節を読んだとき、高校卒業してしばらくの時に見たNHKの番組を思い出した。中国残留日本人婦人の特集。「孤児」は聞いたことがあったけれど、「婦人」というのは知らなくて、その番組を見ていた。すると、ほとんどの女性が、日本に帰れなかった自分の人生を嘆き悲しんでいた。が、一人だけ。

ともかく朗らかなおばあちゃん。NHKの記者にも笑顔で話してる。他の残留日本人婦人と様子が全然違う。この人はもしかしたら、中国で幸せな人生を送れた幸運な人だったのだろうか、と思ったら。

その人は、実の父、義理の母、その子どもである弟と一緒に満州から逃げてきたが、その途中、父は病死。義母と弟の3人で、なんとか港についた。しかし日本まで乗せてくれるという船は料金を吹っ掛け、2人までしか乗せないという。その時14歳の女性が、義母に言い放った。

「あなたは父を弔い、この子を跡取りとして育てる責任があります。あなたと弟が日本に帰りなさい」
14歳の娘がたった一人、戦争のあとが色濃い中国に残ることの意味。のちに中国人男性と結婚するまでの数年間、何があったのか、本人も語らないのでわからない。

その人の弟(もはや白髪の老人)が、NHKの取材に答えていた。両目から涙を吹き出しながら、「姉は私たちのために犠牲になってしまった」と。
こうした経緯があったことも、中国に残留したその女性は、自分からは語らなかった。弟さんから経緯を聞いた、という記者の話で、初めて女性は涙ぐんだ。が。

「あはは、こんなことで泣いちゃって、お釈迦様がきっとお笑いになるよ、なんだ、こんなことで泣くのかって」と言って涙を拭き、そして笑い飛ばした。

私はテレビの前で圧倒されていた。すごい。私はこの女性のような振る舞いができるとは思えない。なんとすごい人がいるのだろう、と。

この人の顔相は、笑顔。きっと、どんな時にも笑顔を忘れなかったのだろう。楽しむことを忘れなかったのだろう。どんな苦境の時にも、何かしら楽しみを、喜びを見つけ、笑ってきたのだろう。すごいなあ、すごいなあ。私もこんな人になれるだろうか。いや、無理なんだけど、少しでも見習いたい。

生きていく上でお金は必要。それをことさら否定する必要はない。必要なだけのお金は稼ぎたい。その欲求を否定する必要もない。ただ、どんな状況にあろうと、生きることを楽しむこと、何かしら楽しみを見つける力を持ちたい、と思う。

ではその力って何だろう?私は、仮説的思考ではないか、という仮説を持っている。目の前の問題をよく観察し、この問題をどう料理してやろうと考え、仮説を立て、アイディアを試してみる。ダメだったら別の方法で再チャレンジ。それを繰り返し、課題を克服することを楽しむ。面白がる。

仮説的思考は、与えられた条件下で何をなしうるかを考え、ゲーム化する思考ともいえる。比較的、様々な苦境の中でも行えるゲーム。そしてゲームでありながら、現実を改善する力を発揮する。それをどんな時にも発揮できたなら、と。

中国残留日本人婦人のその女性も、きっと、次々に現れる問題を一つ一つ、無理くりにでも楽しんで生きてきたのだろう。「荘子」の男も、きっと「ほう、ここでこう来るか」と、予想以上に厳しい困難が起きることを観察して「楽しんでる」風。その中で打てる手を打っては楽しんでいるような。

お金のあるなしを意識しすぎず、今、自分は楽しんでいるか?を考えるようにしてみたい。もし楽しめないなら、いかに楽しめるようにするか?を考えてみたい。その際に、仮説的思考で問題に挑戦することを楽しんでみたい。どうしようもないときはどうしようもないだろうけれど、それはそれで楽しむ。

映画「ライフ・イズ・ビューティフル」のような人が現実にいる。私はとてもそんな人にはなれないけれど、憧れる。ほんの少し、近づいてみたい、と願っている。

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