問題のある「溺愛」は能動感を強奪する

相部和男「非行の火種は3歳にはじまる」「問題児は問題の親がつくる」を久しぶりに再読して連想したのは、「『子供を殺してください』という親たち」という漫画だった。
子どもを溺愛し、さんざんオモチャにしておいて、そのワガママを処理しきれなくなったら命令と規則で縛り、当然ながら子どもは反発し、それをさらに禁止と命令で抑えつけ、子どもはさらに逆上し・・・という悪循環。子どもが手のつけられない悪魔になってしまったと感じた親は、「子どもを殺してくれ」と口にするようになってしまう。
これと同じ内容が、相部氏の本にも書かれていた。

赤ちゃん、あるいは幼児期の要求にこたえるのはたやすい。甘いものが欲しければ与え、おもちゃがほしいと言うなら買い与え。幼児の欲しがるものは価格もしれているからホイホイ買ってしまう。子どもの喜ぶことなら何でもしてあげる。子どもはやがて、それを当たり前に思ってしまう。

やがて子どもが大きくなり、要求するものが高額だったり、親がかなえてやれないものだったりしてくると、当然「ダメ」と言わざるを得なくなる。しかし子どもはそれまで要求が通らなかったことがないから、なんとしても要求を通そうと暴れるようになる。親は「ワガママな」と、今度は抑えにかかる。

この悪循環は、子どもを溺愛し、要求することは何でもかなえてしまうことにある、と相部氏は指摘する。この本は古いけれど、「『子どもを殺してください』という親たち」のような最新の漫画にも通じる問題を取り扱っているように思う。

ところで「溺愛」とは何だろうか。相部氏の本を読んでも、わかるようでわからない。イマイチはっきり書いていない。
多くの親は、少なくとも感情においては子どもを溺愛する。大好きで仕方ない。愛に溺れていると言われたら、その通りだと答える親も多いのではないか。

相部氏の言う溺愛は、子どもの要求は全てかなえようとすること、と定義しているように思える。ただ、赤ちゃんの頃は要求をすべてかなえざるを得ない。ミルクを欲しがれば与えないと飢えてしまうし、オムツを放置すれば病気になってしまうかも。泣けば抱いて、安心させてやる必要がある。

こうした、赤ちゃんに必要な世話まで「溺愛」だとして控えてしまったら、赤ちゃんの生命は危うい。では、問題の「溺愛」はどう捉えた方がよいのだろう?
私は、子どもから「能動的に働きかけることの楽しみを奪うこと」に問題があるのでは、と考えている。

たとえば赤ちゃんがハイハイなどで動く力を持つようになっている場合、手にしたそうにしているオモチャを親がとってあげるのは問題のある「溺愛」、その子が自分の力でオモチャの場所まで移動し、自分の力でオモチャをつかむ様子を横で見守るのが子どもの力を信じる対応、のように感じている。

子どもがケガのない程度に転んだときにすぐに走りより、抱き起こし、「痛かった?大丈夫?」と矢継ぎ早に声をかけ、抱きしめ、もう歩かせないようにしようとするのは、問題のある「溺愛」、他方、子どもが自分で立ち上がり、痛みとどう向き合うのかを見守るのは、子どもの力を信じる接し方、なのかな。

人間は、幼い頃から能動的に働きかけることを楽しむ力が備わっているらしい。息子が赤ちゃんの頃、バウンサーに乗せたら、足の裏に私の腕を当てた。何かの拍子に蹴ると、バウンサーが揺れることを発見した息子は、意識的に足を動かし、蹴ろうとし、バウンサーは大きく揺れるように。

子どもは、能動的に働きかけることで世界が変わることをことのほか楽しむ。この楽しみを奪ったら申し訳ないように思う。しかし問題のある「溺愛」は、この能動感を奪ってしまう。自分の力でオモチャを握ることも、自分の手で食べることも、自分で着替えることも、みんな奪ってしまう。

自分の手で食べ物をつかみ、口に運ぶことに成功すれば、達成感を味わえる。脱ぎにくいズボンを自分の力で脱げたら「やった!」という気持ちになる。能動的に何かに働きかけ、それを達成することは、とても楽しいこと。それを、問題のある「溺愛」は奪ってしまう。

親は順当にいけば、子どもより先にこの世からオサラバする。子どもが自分の力でこの世を生きていく力を身に着けてもらう必要がある。そのためには、能動的に動き、解決することを楽しむ子であることが大切になる。子どもの能動感という楽しみを奪ってはいけないのは、そのためだと思う。

しかし問題のある「溺愛」は、子どもが能動的に働きかけて何かを得る、という達成感を奪ってしまう。みんな親がやってしまう。これによって得られる満足は、物欲、所有欲、権勢欲でしかなくなる。それを満たせないことに腹を立てるしかなくなってしまう。

「千と千尋の神隠し」で、湯婆婆の子ども、坊は、主人公の千に身勝手な要求ばかりぶつけていた。要求を飲まなければ腕をへし折るという残虐なことまでしようとする。
しかしその後、ネズミに変えられてしまった坊は、自分で歩くこと、働くことの「楽しみ」を知ることとなる。

そう、人間にとって、自分が能動的に働きかけ、変化を呼びさますということはとても楽しいこと。しかし問題のある「溺愛」はその楽しみを奪ってしまう。その楽しみを奪われた代償に、かなえようもないほどの物欲や権勢欲を振るうようになってしまうのかもしれない。

そして、そのワガママをかなえられなくなり、かなえられないことで子どもから暴力を振るわれるようになった親は「子どもを殺してください」というようになるのかもしれない。
相部氏が問題視する「溺愛」とは、子どもから能動性を奪うこと、と言ってよいように思う。

私は、感情において子どもを溺愛しても構わないと思う。しかし子どもから能動感という楽しみを奪ってはいけないように思う。しかし、問題のある「溺愛」をしている親は、しばしばこれをやってしまう。なぜだろうか?それは、子どものために尽くしたという自らの能動感を味わうためなのだろう。

子どもの些細な要望にまですぐに対応する自分って、なんて愛情深いのだろう、と自己愛に溺れる。子どものために何でもやってあげるという自画像に酔う。実は、子どもへの愛に溺れているというより、自分の楽しみ、自己満足のために動くことに溺れているのかもしれない。

子どもの能動感を奪い、「子どものために自分がやってあげた」と、自分の能動感確保を優先する。実は、子どものためというより自分のために動いており、子どもに全てを与えているつもりで、子どもから能動感を強奪しているのかもしれない。それが問題ある「溺愛」なのかも。

子育てでは、子どもの能動感をいかに損なわず、それが得られるように見守るのか、が大切なように思う。子どもの要求をすべてかなえてやることは、優しさのようで、実は能動感の強奪だということを、自覚しておくひつようがあるように思う。「子どもを殺してくれ」と言わずに済ませるためにも。

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