欠落を補ってもらう
まず親が立派な人間になり、子どもの見本とならなくては、という話をよく目にする。でも私は、親として欠落があっても構わないと思う。そして、その欠落を子どもに補ってもらえば、なおよい。昔、「あさイチ」で行われた実験はその点で大変興味深かった。
「交差点で飛び出しちゃダメ!」と何度言っても聞かない子どもたち。その子どもたちにある課題を与えた。目隠しした親と一緒に交差点を渡ってほしい、というもの。すると、子どもは必死に左右を確認し、安全であることを念入りに確かめて、親の手を引いて道路を渡った。もちろん手を挙げて。全員が。
親御さんは大変驚いていた。何度言っても聞かない子が、こんなにもきちんとできるなんて!
普段は親が安全確認してくれるから、それは親に任せ、自分は楽しいことにエネルギーを振り向けてしまう。けれど親の安全、生命は自分に預けられている、と思うと、必死になってその責任を果たそうとする。
子どもは、任されるのが大好き。自分がその欠落を埋めなければ、と思うと、とても張り切る。自分の不可欠感、存在価値を強く感じることができるからだろう。もちろん、やり遂げた時の達成感も強い。そうして能動的に動いた体験は、学びも深い。
子どもは、与えすぎると動かない。すでに満たされているから、自分の出る幕がない。つまらない。自分が活躍できる場が欲しい。だからむしろ、親は欠落のある所を見せて、それを子どもに補ってもらうくらいのほうが、子どもは大きく成長するように思う。
教育実習の時、熱化学方程式というのを授業で教えることに。ところが、用意した答えが合わない。生徒をほったらかしにして検算すれば答えは出せるだろうが、それでは生徒たちが置いてけぼりになる。そこで、以前から塾で指導しているときに感じていた「仮説」をとっさに試すことにした。
「どこが間違ってるんやろ?誰か分かるのおれへん?」生徒はざわついた。仮にも現役の京大生だろ?なんで答えられんの?というのもあったろうが、そのうち、隣の子と「あそこじゃない?」としゃべっている子が。「そこ!君らだけでしゃべらんと、教えてよ」と発言を求めた。
そこで計算を間違っていると思う、と言ってくれたので、ほうほう、と言いながら、また間違った。するとほかの生徒が「ちゃうちゃう」というので、「え?どこ?」と聞いた。クラス全体で、どこを間違っているのか、考えてこの実習生に教えてやろうという雰囲気になってきた。
授業が終わる5分前くらいに、ようやく正しい答えを導けた。「できた!ありがとう!拍手!」というと、クラス全員から万雷の拍手(と爆笑)。隣の先生がビックリしてのぞきに来たほど。
後日、指導してくれた先生が「あのクラス、熱化学方程式はみんな解けてた」と教えてくれた。
人間とは不思議なもので、うまくやれなくて困っている人を見ると、「あそこをああやればいいのに」と考え、何なら「貸してみろ」と言いたくなる衝動が生まれる。立派な見本を見せるより、うまくできないで困っていると、それを解決したくなる気持ちが湧く。どうしたらよいのか、脳みそが活発に動く。
教えるというより、見本となるより、うまくできないところを見せること、欠落を見せること。そしてそれを子どもに補ってもらうこと。補ってくれたら驚いて見せ、お礼を言う。すると、子どもはとても誇らしそうな顔をする。もっとできることない?と喜んで取り組もうとする。
むしろ親や指導者が完璧な見本になってしまうと、子どもの出番がなくなる。つまらないから、別事に関心を持ってしまう。親や指導者が「今の見本、どうだ!」とドヤ顔を見せた時には「ふうん、お上手。とてもマネできるとは思えません」と言って、子どもはスルーしてしまう。関心を失ってしまう。
子どもが活躍できる場、子どもが補ってくれる役割、を残しておく。欠落を子どもに埋めてもらう。それが子育てではとても大切だと思う。だから、完璧な親でなくていい。至らないところが多々あったとしても、それを子どもに補ってもらえばよいように思う。親はそれに驚き、感謝するとよいように思う。