哲学から愛智へ

大学で受けた哲学の講義は、言葉が難しくてチンプンカンプンだった。専門用語が理解できないとダメなのかと絶望。でもソクラテスはロバとか鍛冶屋とか靴職人、なめし皮革業者とか、身近な人の話ばかり。哲学って本来、日常の中で日常用語で考えるものだと思う。

難しい言葉を難しいまま使ってる人の話はあまり聞かなくてよいくらいに思っている。たぶんその人も理解できてないから。日常用語に変換できないなら、ご当人も自分のものにできてないように思う。

夫婦の会話、職場での出来事、子育ての悩み、こうした日常の出来事も立派な哲学の対象だと思う。そして哲学だからと言って、急に難しい専門用語に置き換えて話さなきゃいけないなんて思う必要はない。日常で話してる言葉で考えりゃいいのだと思う。

だいたい、哲学なんて訳語がダメ。意味がわからない。哲という字、他に使う場面あるのかねというくらいの使用が珍しい字だし(先哲くらいか)。
哲学は向こうだと「知を愛する」というという意味のフィロソフィーだそう。なら愛知でいいじゃないか。地名みたいと言うなら愛智。

一体何が起きてるんだろう?どう考えるとよいのだろう?を、日常で考える。それが愛智だと思う。哲学なんて下手な訳語はもうやめて、愛智にすればよいのに、と本当に思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?