取り返しのつかない失敗について

失敗の中には、テヘペロでは許されないものがあるのではないか、と指摘を受けた。その通り。医者は患者を死なせてしまうことがある。教師は子どもの人生を狂わせかねないことがある。それをテヘペロでは済まされないことは事実だと思う。

テヘペロは原則、回復可能な失敗の場合に有効、なのだと思う(これもグラデーションがいろいろだけど)。取り返しのつかない失敗の場合、テヘペロでは済まされない、となることがあるのは事実。
ここで医師の方から、「その失敗は生涯引き受け続けなければならないのだろうか」と問いかけが。

それで思い出したのは、2人の医療ソーシャルワーカー。一人はとてもマジメで、患者のこれからの人生を思うと大変つらくなり、退院後のプランを示した後も、もっとやりようはなかったのだろうかと気に病み、ついに耐えきれなくなって仕事を辞めた。

もう一人はサバサバした性格で、「あなたの退院後に使えるプランはこれとこれ、どれにするかはあなた次第」とテキパキ処理し、退院した人のことは考えない。その代わり、常に最新の情報を貪欲に学び、最善のプランを提供できるように努めている。仕事を今も続けている。

私は子育てについてものすごく意見発信しているけど、それはテヘペロで済まない失敗をしてきたから、という面がある。なんであのときあんな声かけをしてしまったんだ、という悔いがたくさんある。では、そういう失敗をした私は沈黙したほうがいいのか、と考えた場合。

私みたいな失敗はしないでほしい、と考えると、やはり伝えたほうがナンボかマシ、と考えた。だから発信している。悔いがあるからこそ、次に活かす。それをしたからといって過去の失敗を帳消しにできるわけではないが、帳面に残っているからこそ未来に活かす、というか。

「医龍」という漫画に、医者は患者を殺すことで腕を上げる、というような現実を書いているシーンがあったように思う。医療という仕事は、助けたくても助けられない患者と向き合うことを余儀なくされる仕事のように思う。その時ベストを尽くしたつもりでも、なお助けられないということもあるのだろう。

あの時ああしていれば、こうしていれば、という悔いが自分を苛(さいな)むことがあるだろう。では、罪の意識に潰れればよいのかというと、そんなことではこの世から医者がいなくなってしまう。「あの時どうすればよかったか」を、過去にではなく未来に問い、それを活かすほかないように思う。

医者が「もっとマシな治療法はなかったのか」と悔いるように、教師は「あの子にもうちょっとマシな指導はできなかったのか」という悔いを持つもののように思う。いろんな職場で、そうした悔いがあるように思う。自分を責めずにいられない悔い。しかし。

過去はもう取り返せない。自分を責めても何も出てこない。失敗を何らかの形で活かすには、未来に進むしかない。もし同じことが起きた時、少しでもマシな結果をもたらせるように、と。

ところで、なぜ人は失敗を理由に自分を責めるのだろう。どこかで、失敗することのない完璧な人間になり得ると自分で考えているからだろうか。しかし残念ながら、人間は失敗する。失敗してはいけない失敗さえしてしまう。失敗しない人間など、この世にいない。

ただし、「少しでもマシ」は目指すことが可能。許されない失敗を少しでも減らす。人を傷つけてしまう失敗をなるべく減らす。それならできる。だから私は「少しでもマシ」を続ける、と心に決めている。

とはいえ、心も体も限りある人間。疲れてしまうこともある。そうした場合は、再び元気を取り戻せるまで自分を休め、遊びが必要ならそれも自分に提供して心を満たし、再び「少しでもマシ」を目指す。それを日々続けるしかない、と今のところ考えている。

失敗しない超人にはなれない。完璧な人間になどなれない。でも「少しでもマシ」なら目指せる。私は、失敗を活かすには、とりあえずそれを続けるほかないと考えている。失敗を過去に向けて考え込み、自分を責めるのではなく、「少しでもマシ」を未来へ。そう考えている。

取り返しがつく失敗は、テヘペロで明るく笑って、しかし次は同じ失敗をしないぞ、と、工夫する意気込みを。取り返しのつかない失敗は「少しでもマシ」を未来にもたらす覚悟で。そうしていくほかないのかな、と、今は考えている。

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