専門家と素人の関係
私は専門家には敬意を払うべきだと考えている。その道で素人とは比較にならないほど検討しまくった人なのだから、その意見はまず妥当なものだと受け止めたほうがよいと考えている。だけど、「専門でないなら黙ってろ」「専門家が言っているんだから何も言わずに信じろ」は違うと考えている。
私はこれまでに二つ、世界で初めての研究成果を出すことができた。そしてどちらの研究も開始するにあたって「篠原君が考えるようなことはすでに専門家が検討し尽くしているはず、無駄だからやめておけ」と忠告された。でも私は納得いかず、やってみたらやっぱり世界初だった。
専門家だからといって、全知全能の神ではない。専門分野なら素人よりも絶対知っているかというと、そうでもない。その人が知力の限りを尽くして、自分で検討したことがあることに関しては、誰よりもご存じだろう。でも少しズレたこととだったりすれば、素人同様、無知だったりする。
私はよく、農家の方から教えられることがある。私は農業研究者だから専門家だとみなされる。けれど、「いや、そんなこと検討したことなかったですわ!へえ!やってみたらこうなるんですか!面白い!」という発見を結構頂く。その農家さんが世界で初めて検討したことなら、専門かどうかは関係なし。
謙虚な専門家の方は、自分が興味を持って実際に検討したことがあることなら自信をお持ちだけれど、自分が検討したことがない、本の知識でしか知らないことは「分からない」と答える。私はこの姿勢、とても大切だと思う。実際に手を動かして検討したことと、本の知識とでは大きな違いがある。
専門家でも「思い込み」をすることは多い。例えば、金属を水素ガスにさらすと、水素が金属に染み込んで脆くしてしまう「水素脆化」という現象がある。これは専門の教科書にも載っている常識だったらしい。で、ある先生が「超高圧の水素にさらしてみよう」と実験してみた。すると。
水素がこれ以上染み込まなくなり、しかも金属は脆くなるどころか丈夫になったのだという。教科書に載っていた現象は「中途半端な圧力で水素にさらした場合」であって、超高圧の水素にさらしたら、全然別の結果が出てきたという話。教科書に書いてない条件で実験したら、別の結果が出てくる。
鉄はさびやすい金属として素人にもよく知られている。ある研究が出るまでは、専門家の間でも鉄がさびやすいのは常識だったという。ところがある研究者が、不純物を徹底してとり除いた、超純粋な鉄を作り出したところ、全然さびなくなったという。教科書の常識を破る成果。
「鉄はさびやすい」は、「中途半端な純度の鉄」の場合であって、超高純度の鉄になると性質が変わってしまう。このように、専門家自身が検討したことがない条件だと、結果はまるで違ってしまうことがある。だから、専門家が言っているからといって、教科書に載っているからといって、信じるのは危険。
まだそれを誰もやったことがないのなら、専門家も知らない現象が起きる可能性がある。だから、専門家がそう言っているのだから諦めるとか、専門家がそう信じているのだから素人は黙っとれ、というのは、私はイノベーションを阻害する問題のある姿勢だと考えている。
iPS細胞の研究で有名な山中教授は「その分野のことをあまり知らなかったからできた」と発言している。万能細胞についての過去の研究を知り尽くし、どれも失敗に終わっている歴史を知り過ぎていたら、「無理」と最初から諦めて、検討しようとさえしなかっただろう、ということらしい。
「知り過ぎているからできない」というのは、「裸の王様」と同じように思う。なぜ大人たちは、王様が裸であることを知っていたのにそれを言えなかったのだろう?大臣たちもきれいな服を着ていると言っている手前、それを否定したらどんな報復をされるかわからない、という恐怖があったからだろう。
貴族たちの人間関係、力関係、庶民である自分たちの商売の関係など、そうしたことを知り過ぎていると、どう見たって王様は裸だと思っても、みんなに合わせて「素晴らしいお召し物で」と言うしかない。「知り過ぎている」と、王様は裸だと指摘できない。これは専門家でも起きることだと思う。
ソクラテスと同時代人で、プロタゴラスという人物がいる。ありとあらゆることに詳しい天才と呼ばれていた。で、ソクラテスはプロタゴラスに会いに行き、質問した。プロタゴラスはたちまち見事な解説をした。ソクラテスは疑問に思ったことを質問した。するとまたプロタゴラスは解説。しかし。
プロタゴラスが大量の言葉で疑問を押し流そうとするのを、ソクラテスは制止し、「一つ一つ確認しながら進めたいので、こちらの質問したことにだけお答えいただけますか?」と頼んだ。すると、ソクラテスの問いに答えているうちに、プロタゴラスの答えがだんだん矛盾し始めた。最終的にプロタゴラスは。
「実は私は、そのことについてはあまり知らないのだ」と白状するしかなかった。本の知識、人から聞いた知識でしかない、大量の言葉で人を圧倒させてきただけだったのだろう。プロタゴラスの態度は、「お前ら素人とは違う」という姿勢を示す傲慢な専門家と似ているような気がする。
他方、ソクラテスは「知らないものは知らない」と素直に認める人だった。若者の方が知っていると思えば、若者から根掘り葉掘り教えてもらおうとする人だった。「謙虚な専門家」は、自分自身の手で検討したことがない話だったら、知ったかぶりせず、素直に教えてもらおうとするものだと思う。
オルテガは「大衆の反逆」で面白いことを言っている。科学者は典型的な大衆である、という。一分野に詳しいだけなのに、すべての分野に詳しいつもりになって、偉そうにいろいろ語る科学者が、当時は結構いたらしい。特定分野の専門家が、あらゆる知識を持てるはずがないのに。
ここで矛盾したことを言うようだけれど、「専門家でもない人間が、専門外のことに関し『これはこうに決まっている』と断定口調で決めるつける」ことと、「素人が専門家でも気づかないようなことを見つけることがあるのだから、耳を傾けるべき」ということは、似ているようで違うように思う。
私たちはみんな、素人なのだという自覚が必要に思う。自分が自らの手でいろんな角度から検討したことは専門として捉えてよいかもしれないけれど、やったことがないことはたくさんあり、それについては素人。そして素人分野をみなさん、大量にお持ち。専門家であっても。
自分が検討したことのない分野に断定的に「こうに決まっている」と決めつけるのは、問題。他方、「私は素人だけれど、こんなことに気がついた。このことは、案外専門の方でも気づきにくい気がする」という発見には耳を傾けたほうがよいと考えている。
私たちは誰もが、「知っていること」は相当に少なくて、「知らないこと」だらけなのだと思う。だから、専門家がウジャウジャいそうな分野でも、案外、素人の人が世界で初めてそのことを考え、発見することは、結構起こり得るように思う。
私は、自分の専門分野以外では素人だという自覚がある。他方、専門家がウジャウジャいる分野であっても、専門家がまだ気づかない、未検討のことはとてもたくさんあると考えている。だから素人の私でも新発見することは結構可能だと考えているし、それは他の人たちもそうだと考えている。
ツイッターは、「気づき」を共有するのに向いている。たとえ素人の気づきであっても、専門家が検討したことがない新発見のことは十分あり得ると思う。だから、遠慮なしに気づきがあれば共有したほうがいいように思う。
まあ、私がつぶやく「気づき」は、大概すでに誰かが気づいたことだったりする。ただ、その気づきを素人が言葉に紡いだことで、「そうした説明の仕方は初めて聞いた」と言われることがある。素人の説明の方がストンと腹に落ちやすい、ということがあるらしい。
だから、すでに既知のことであっても、専門家ではない言葉遣いで言語化することもまた意味があるのではないかと考えている。専門用語が生まれると、まるですごく調べられたことのように思ってしまうけど、かえって言葉が生まれたことでごまかされてしまうことがある。分かっているかのように勘違い。
素人が、「この専門用語の意味わからん」と考え、自分の言葉で紡ぎ直すと、実はその専門知識は「裸の王様」であることがバレたりすることがある。言葉があるから実態があるように勘違いしていたけれど、そんな実態はありませんでした、ということが赤裸々になったり。
だから、一般の方も恐れずに、自分の言葉で理解し直し、紡ぎ直すことをやって見られるといいと思う。それは専門家をハッとさせることもあるだろう。専門家は、素人の方のそうした試みから新発見をしたらよいのだと思う。素人を黙らせるのは、なんかもったいない姿勢のように思う。
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