教師、官僚への敬意を失った結末

そりゃそうだろうと思う。ブラックな職場環境が明らかになった上、大阪府・市では、教員への敬意が失われ、政治家の支配下に置く話が頻々と聞こえてきて、それにつられた世論も長く続いた。そんな屈辱的な職業につきたくない、と若い人が思って当然のことと思う。
https://news.yahoo.co.jp/articles/2e801e6affe9bd00c2fcfbcb929ca9c99c35779a?source=sns&dv=pc&mid=art06t1&date=20230620&ctg=dom&bt=tw_up

本来、人が育つのをそばで見守るというのはとても楽しい仕事。だからかつては、給料は高くなくても教員になりたいという人は多かったし、サービス残業がひどくても子どもたちのためになるならば、と、熱心に取り組むこともいとわない教員が多かった。

けれど、社会から教員への「敬意」が失われた時期が長すぎた。特に大阪府・市は、自民党保守派と認識が似ていて、教員≒日教組と考えていたフシがあり、いかにして命令通り動かすか、反抗的な教員をガタガタにいわせるかに腐心して、教師という職業をボロクソに表現することが相次いだ。

しかもそのころ、子どもを持つ親の世代は管理教育の中で育った人たち。学校への恨みつらみをもっている人が多くて、大阪府・市を中心とする教師叩きを歓迎し、同調する人が少なくなかった。また、ゆとり教育で教える内容が減ったことを問題視し、塾に軸足を置く親も多くて、学校に批判的。

こんなにボロクソに言われて、しかも社会から尊敬されるどころか軽侮される空気に支配されて、教師になりたいという気持ちがなえる中、やがて、部活指導などはボランティアで行っており、残業手当も出ないというブラックな実態が明らかになって、よけいに若い人にはネガティブな印象に。

それでももし、社会が教師に対して一定の敬意を持ち、行政も教師に対して敬意をもって接していれば、ブラックな状況があったとしてもそうそう教師希望の若者は減らなかっただろう。ブラックな状況は改善すべきだと思うが、何よりも回復が必要なのは、敬意だと思う。

教師希望の若者が減った構造は、官僚になりたがる東大生が減少しているのととても似ているように思う。第二次安倍政権では官僚の人事を政治家が掌握し、出世したければ政治家の言うことを聞かねばならなくなった。その制度が成立したこと自体は特に問題はない。ただし。

人事権を盾にして政治家が思いつきのアイディアを政策にすることが相次いだ。心ある官僚は「そんなことをしたら大変なことになります」と、現場で起きていることを説明し、直訴したが、ことごとく左遷。このため、誰も政治家に直言することができなくなってしまった。

東大生の多くが官僚を目指したのは、自分が必死で調査し、「この分野ではこうした政策が日本の将来に役立つだろう」と考えた政策をまとめ、政治家に具申、それに賛成してくれる政治家がいれば、それが実際に政策にしてもらえた。自分の勉学が日本の将来に役立つという達成感がかつてはあった。

しかし人事権を牛耳った政治家は、官僚を「命じれば好きなように動かせるコマ」扱いし、言うことを聞かない人間、意見してくるこざかしい人間は左遷すればいい、と考えるようになったため、東大生は絶望した。「こんな敬意のかけらもない、ただの道具扱いでは官僚になっても意味がない」

このため、東大生は官僚になるよりも、給料の高い外資系企業に就職するのを希望するようになった。日本の選良が、官僚でないばかりか日本企業ですらなく、外国企業を希望するように。日本が丹精込めて育てたはずの東大生が、外国企業の力に。日本の力になるのではなく。

その原因は、政治家が東大生に、官僚に、一定の敬意さえ払わなくなり、アゴで動かせる単なるコマ扱いしたことにあるだろう。意見する奴はクビを飛ばせばよい、と、非常に軽く扱ったからだろう。このため、日本の選良である東大生は、日本の将来に関係のない職を選ぶようになってしまった。

官僚が政策案を作ることに異論があるのは承知している。しかし、その仕組みがガタガタになってしまった今から見ると、なかなか面白い仕組みであったように思う。官僚は公務員として、様々な現場と接することになる。様々な業界団体から、現場で起きている問題を聞く立場にある。官僚には現場がある。

その現場の問題をどうにか解決しなければならない、という問題意識から、政策案は作られ、それを政治家に提示する。とはいえ、官僚ができるのはそこまで。彼らは立法権がないから、あくまで政治家が「これはよい」と思ってくれなければ、政策案は案で終わってしまう。

そして政治家は、官僚をシンクタンクとしてうまく活用してきた。しかもこのシンクタンクは、行政の現場というまたとない情報源を持っている。民間のシンクタンクでは、憧れても決して接することができない情報源。それが行政の現場。だから官僚はシンクタンクとして非常に有効に機能した。

ところが政治主導といううたい文句で官僚の人事権を政治家が握ると、東大出身の超エリートを自分の思い通りに動かし、気に入らなければクビにできるという快感に酔いしれたのか、その支配力をふるいまくった。私はちょっとサディスティックな欲望をその裏に感じ取ってしまうくらい。

東大出身の超エリートの運命は、政治家のちょっとした気分で操れる軽いものに。しかも、自分が職を賭して、日本のためにと政治家に意見具申をしても「俺に逆らうとは気に入らねえ」と、サクッと首にされる現実を目の当たりにして、東大生は官僚になりたがらなくなった。

そう、官僚と教師はよく似ている。気分屋の政治家にいいように愚弄され、気に入らなければクビにするか研修という名の屈辱を浴びせられ、軽く扱われる職業になった。官僚は日本の行く末を考える職業、教師は日本の人材を育てる重要な職業であるにもかかわらず。

政治家は行政の現場を知らない。政治家は子どもを育てるということの難しさを知らない。知らないのに、官僚も教師もアゴで動かせると考え、「俺の命令通りに動けばいいんだ、逆らう奴は左遷するぞ」と脅し続けた。これでは、政治家は日本をダメにするために仕事をしているようなもの。

政治家は本来、現場の声に耳を傾け、現場で働く人たちが働きやすいように、そしてそれが日本の将来を明るくするものになるようにするのが仕事。逆らう人間を好きなようにクビにできることの快感を味わうのは仕事でも何でもない。政治家はここしばらく、勘違いしていたのではないか。

政治家は、現場で働く人たちへの敬意を欠いてはならないように思う。そして、現場がよりよくなるように、現場で働く人たちが気持ちよく働けるように、そしてそれがそのまま日本の将来に役立つようにデザインするのが仕事なのだと思う。政治家は本分を思い出してほしい。

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