工夫する楽しみ

これをつぶやいたら、「親自身が勉強する姿を見せなければ」「親自身が学ぶことを楽しむ見本を見せなければ」というご意見が複数。
これらのご意見、半分あっていて、半分は違うかな、という気がしている。そうとも限らない「反証」を結構見かけるから。
https://note.com/shinshinohara/n/nc21851445c94

「わしらは無学だから」と言って、実際学歴もなく、本も読まないご両親。そのもとで育ったお子さん、本はたくさん読むし学校の成績でも抜群。大学は旧帝大に進学。そうした事例が結構ある。そうした事例を見ると、「親が見本を見せなければ」という仮説はひっくり返るように思う。

それとは逆に、親は本も読むし日々勉強する努力家のご両親。小学生までは子どもも大変な勉強家で読書量もすごかったけれど、思春期に入るあたりからうまくいかなくなり、グレたりひきこもったり。親が見本を見せれば子どもは勉強し続け、本を読み続けるという仮説もこうした例から、覆ってしまう。

「親が見本を見せなければ子供は勉強しないし本も読まない」という仮説は、どうやらそうとも限らない、なんなら関係ないかもしれない。見本を見せても幼いころから勉強が嫌い、本を読むのも嫌い、逃げ回ってばかり、という事例も私は知っている。「親見本説」は、いったん忘れてよいように思う。

では、子どもが自発的に本を読み、学ぶのを楽しむのには、どんな条件が親に備わっているのだろう?私が観察するに、
・子どもをよく観察する。
・先回りせず、見守る。(後回り)
・昨日と違う「差分」を見つけたら驚き、面白がる。
という特徴が親に備わっているように思う。

すごくざっくり言うと、「赤ちゃんの時と同じ接し方」をずっと続けている親御さんの元では、子どもは生き生きと進んで学んでいる気がする。これは考えてみると、当然かもしれない。子ども、特に幼児は、親を驚かすのがことのほか大好きな生き物だから。

赤ちゃんって、教えることができない。言葉が通じないから。だから、言葉を教えることも、立ち方や歩き方を教えることもできない。ただその日が来るのを、祈るように待つしかない。見守るしかない。それでも、赤ちゃんは日々成長する。首がすわっていなかったのが、すわるようになる。

寝返りが打てるようになる。後ろにしか進まなかったハイハイが、前進できるようになる。ものをつかめなかったのがつかめるようになる。毎日のように進化する。昨日できなかったことが今日できるようになる。親はそのことに毎日のように驚かされる。そしてある日。

「立った!いま、立った!」「え?今の言葉だよね?いましゃべったよね?」初めて立った時、言葉を話したとき、親は驚かされる。そして手放しで喜ぶ。教えもしないのに子どもはどんどん能力を獲得し、成長していく「奇跡」に驚かされる。

しかし多くの親御さんは、子どもが言葉を話せるようになると、教えようとする。言葉で伝えようとする。その結果、「ああすればいいよ」「こうしたほうがうまくいくよ」と先回りするようになる。子どもが幼い間は、素直に聞くかもしれない。親のことが好きだから。でも。

次第にそれが疎ましくなる。そして反発するようになる。親は子どもを思って先回りしているのだけれど、子どもからしたら命令に見える。それを嫌悪し、反発する。でも、原因はたぶん、そこではない。親が「驚かなくなった」ことに大きな原因があるように思う。

幼い子供は「ねえ、見て見て」と口癖のように言う。昨日までできていなかったことが今日できた。それを親に見てもらいたくて。そしてそれに驚いてほしくて。そう、子どもは親に驚いてほしい。自分の成長に、工夫に、発見に、挑戦に驚いてほしい。なのに少なからずの親御さんが。

言葉が子どもに通じるようになると、言葉で先回りしてしまう。先回りすると、子どもはどう感じるか。「あ、先回りするくらいだから、親はもうこのことを知っているんだ。ということは、これができるようになっても驚かないんだ」と察する。驚かないことをやってもつまらなくなってしまう。

「わしら無学だから」と謙遜していた親御さんが、お子さんを向学心あふれる子どもに育てたのは、「驚く」からだろう。え!もうそんな本読めるようになったの!え!もうそんなことができるようになったの!子どもの成長、昨日できなかったことが今日できるようになったその変化への驚き。

子どもはそれが嬉しくて、親をもっと驚かせようと本を読み、学び、そしてそのことを伝えて親をびっくりさせる。そして親御さんはへええ!とのけぞりながら驚き、「大したものだなあ」と喜ぶ。それが子どもの向学心をいやが上にも高めていたのではないか。

他方、子どもに見本を見せまくっていた親なのに、子どもが早くから勉強や読書から逃避してしまった例は、「先回り」していたのではないか。「この本、読んでごらん、面白いよ」「これを解くと面白いよ、やってごらん」親がこうして進めると、子どもは一つのことを察する。親は驚かない、と。

親が勧めるということは、親がそれを知っているということ。それができても驚かないばかりか、「それができたなら次はこれ」と、次から次へと出てくるのが目に見えるよう。それではいつまでたっても親は驚かない。親は褒めてくれるけど、その誉め言葉は、次をやらせようという魂胆が見え隠れ。

だから、親が見本を見せれば見せるほど、子どもはそこから遠ざかろうとしてしまうのかもしれない。子どもは親を見本にして生きたい、と思うのではなく、子どもは、親に驚いてほしい子が多いのではないか。なのに驚いてくれなくなるから、つまらなくなるのではないか、という気がする。

私は、いろんな事例を観察することで、そうしたことに気がついた。そして、「驚く」という対応が、まさに驚くほどの能動性を引き出すのだ、ということを何度も実感させられた。「驚く」というのは、こちらの期待していなかった事態が起きる、ということ。それを起こせた子どもは得意満面。

では、「驚く」にはどうしたらよいのだろうか。それこそ「赤ちゃんへの接し方」と同じなのかな、と思う。赤ちゃんがつかまり立ちをしてもよいように、不安定な危ないものは片づけておき、つかまっても大丈夫なようなものを用意しておく。でも、子どもに手取り足取りつかませようとはしない。待つ。

赤ちゃんが自ら、自分の気の向いた時につかまり立ちをするに任せる。それができる環境は整えるけれど、先回りして「さあ、ここをつかみなさい、右を出したら左を出しなさい」なんてことは教えない。子どもが好きにやるのに任せる。そのうえで、放置するのではなく、観察する。観察していると。

昨日までは不安定だったのに、ほぼ手の方に力が入っていなくても立ててるよ!という変化に気がつく。昨日と今日との「差分」に気がつく。それに驚くと、子どもはそれをきちんと察する。そしてまた驚かせようと企む。

子どもはきっと、無意識のどこかで覚えている。自分が初めて立った時、あるいは言葉を話したとき、親が心底驚き、手放しで喜んでくれたことを。その様子を再現したくて、もう一度驚かせたくて、幼児は「ねえ、見て見て」を毎日の口癖にしているのだと思う。

そう、子どもは向学心のカタマリ。「ねえ、見て見て」という子は、「できない」を「できる」に変えることで大人を驚かせようと企んでいる、素晴らしく向学心のカタマリでいる証拠。ならば、驚けばよいのだと思う。「へえ、こんなこともできるようになったのかい!」と。

「驚く」が「ほめる」よりもよいところ。「ほめる」はどうしても大人の側に「これをもっと伸ばせばいいよ」という誘導の臭いがする。誘導するということは、親がそれを知っているということ。知っているということは、できるようになっても大して驚きはしない、ということ。これではつまらない。

でも「驚く」は、想定外だったから驚く。想定外だから、子どもをどこかに誘導しようという意図の臭いがしない。だから子どもははしゃげる。もっと驚かしてやろう、と企む。

では、親はどうやって驚けばよいのか?子どものするようなこと、できるようになることなんて、大人からしたら当たり前。当たり前のことができるようになっても驚きはないではないか、と思われるかもしれない。
一つ方法がある。教えないこと。先回りしないこと。これが「驚く」コツだと思う。

赤ちゃんに立ち方、歩き方は教えられない。教えないのに立ったり歩いたりするから、親は驚かずにはいられない。
赤ちゃんに言葉を教えることはできない。教えないのに言葉を話すから、親は驚かされてしまう。
そう、「教えない」でいると、親は、子どもができるようになることに驚かずにいられない。

先回りもせず、教えもせず、子どもがいつか自ら気づき、学び取りますように、と祈るような気持ちで見守る。そして静かに観察する。すると、子どもが自らの力でそれをつかみ取った時に、親は驚かずにいられない。子どもは親を驚かせて得意満面。そして自ら学ぼうとする。すごい勢いで。

子どもが何を学び取るのか、コントロールしようとしない。子どもが学びたいものを学べばよいのだと思う。そして学びが進むごとに親が驚いていれば、ものすごい勢いで学ぶから、結果的に、学校の内容は「ついでに」学んでしまう。そのことにまた驚かされる。

子どもが能動的に楽しく学ぶ、その姿勢さえ大切にしていれば、それを「驚く」ことで促していれば、子どもは勝手に学ぶ。様々なことを、大量に。学校の学習内容は、そのついでに学んでしまうもののように思う。学校で習うことは、社会で学ぶごく一部、エッセンスでしかないから。

親は、変に見本を見せようなどと思わずに、子どもの工夫、発見、挑戦に驚き、面白がればよいように思う。すると子どもはどんどん工夫し、発見し、挑戦を続ける。そして成長を続ける。学習意欲は、そのようにして高めるとよいように思う。

私は特に「工夫」に驚くようにしている。これまでにない発想で取り組むこと。別にそれは成功だろうが失敗だろうが構わない。今まで試したことのない工夫を試してみた、ということに驚くようにしている。すると子どもたちは、今までにない工夫をしようとする。

ありとあらゆる工夫をしてみるというのは、試行錯誤そのもの。仮説を立てて、新たな方法を試すということ。仮説思考が自然と身につく。工夫を続ければ、必ず打開策が見えてくる。失敗からも多くを学び、次の機会には、同じ過ちを繰り返すことが減る。どんどん洗練されていく。

だから私は、成功失敗にこだわらず、「工夫」に着眼して、驚くように心がけている。工夫は、すべてのことに通じるように思う。どんなことも工夫すれば、その子なりの最大のパフォーマンスを引き出すことになる。それは、その子の能力を最大限引き出すことにもなる。

そして、工夫そのものが楽しい。面白い。ふとした拍子に打開できる時の快感を子どもは知っているから、うまくいかなくても簡単にあきらめず、ずっと工夫を続けるようになる。この楽しみ、喜びを知る子どもは、将来親がいなくなっても、その楽しみを忘れずに生きていけるだろう。

工夫は、学ぶ楽しみの源泉だと思う。そして親の「驚く」は、子どもに工夫することの楽しみに気づいてもらう「触媒」として優れているように思う。やがて親が驚かなくなっても、親が驚こうにもこの世からいなくなっても、子どもは工夫を続け、事態を打開する力を獲得できるだろう。

だから親御さんは、変に見本を見せようなどと思わず、子どもを変に誘導しようと思うのではなく、「工夫に驚く」ようにしてはいかがか、と思う。すると子どもは親を驚かせようと工夫を凝らすだろう。やがて工夫することの楽しみを知れば、親がいなくても工夫することをやめなくなるだろう。

そうして、子どもたちが工夫することを楽しめば、たとえこれから人類が様々な難局にぶち当たっても、工夫することで打開する道を見つけるようになるように思う。子どもに伝える大切なもの、それは工夫する楽しみなのではないか、という気がしている。

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