子どもは能動的に、大人は受動的に

「能力は先天的に決まっている」という意見をよく聞く。私はこの言葉、雑だと思う。あまりにも解像度が悪い。
人間の能力は生まれつきデコボコがある、という点なら私も同意する。私は昔から人の名前を覚えるのが苦手。名前を聞いたそばから忘れる。我ながら見事。覚える気がないらしい。

逆にYouMeさんは、名前は覚えるけど顔を認識しづらいのだという。顔を見ても誰か分からない。名前を聞くと「ああ」と思うという。私と正反対。
道案内もちょうど逆。私は座標と方角でつかめば目的地にたどり着けるけど、「これが見えたら右に曲がって」という目印だけを頼りにした道案内は苦手。

理科が好きな子もいれば文学に心を寄せる子もいるし、体を動かすのがともかく大好き、数学の抽象的なことを考えるのがたまらん、など、個性は様々。人間には生まれつき個性があり、好き嫌いも手伝って、伸びやすい能力とそうでない能力が個々人にあったりするように思う。

他方、そうした個性を踏まえた上で、その個性に適した環境が与えられれば、スクスク育つようにも思う。ただし相性の悪い環境に置かれると難しい。ハスは水辺に、サボテンは乾燥したところでスクスク育つが、逆の環境を与えたら育たない。個性に応じた環境を提供する必要がある。

しかるに現代の教育学は、どんな個性の子にどんな環境を提供したらよいのか、そのノウハウは蓄積していない。そもそも、子どもの個性を把握する方法さえ開発できていない。みんな手探りでやってる状態。教育学はいわば、「群盲象を撫でる」の状態。

「群盲象を撫でる」はインドのことわざ。目の見えない人たちが手探りでゾウを触り、尻尾をつかんだ人は「呼び鈴のヒモだ」と言い、耳を触った人は「カーテンだ」と言い、牙を触った人は「武器だ」と言い、足を触った人は「柱だ」と言い。みんな言うことがてんでバラバラ。

大切なことは、違うことを言ってる人がいても、安易に否定しないことだと思う。その人は確かに呼び鈴のヒモだと感じたのは事実。カーテン、柱と思った人がいるのも事実。自分の体感したものと違っていても、その人はそう感じたのだという事実まで否定してはいけないように思う。その上で。

呼び鈴のヒモだと決めつける前に、もう少しよく観察してもらうと、先っぽに毛が生えてるとか、時々鞭打つように動くとかの報告が得られる。カーテンも、風もないのに動くとか、柱はまっすぐじゃなくて、真ん中の出っ張りの裏にはくぼみがあるとか。そうした情報を集めると「これがウワサのゾウでは?」

ゾウの尻尾をつかんで「呼び鈴のヒモに違いない、カーテンだとか柱だとか言ってるやつはどうかしてる」と決めつけ、周囲を否定したらそこで学びはストップしてしまう。自分と感じ方が違うのは、そこに別の事実があるからかも、と考えることが必要。

子育ての場合、子どもの持つ個性が何であり、その個性に適した環境とは何か、を考える必要がある。専門の先生でも難しいのに、それを「初めて親をやります」という親が実施する。その子に応じた環境を提供できることのほうが奇跡に思えてしまう。考えるだけでも3つの大きなバイアスがあるのだから。

それでも、どの親でも比較的実践が可能で、どんな個性の子も、それぞれの特徴を生かした形で能力を伸ばす方法はあるように感じている。それが「驚く」こと。赤ちゃんが初めて立ったとき、言葉を話したとき、驚き、手を叩いて喜んだ、その時の接し方を、子どもが大きくなっても続けること。

親が変に「あっちの能力を伸ばしたらよいのに、こっちの勉強をしたらよいのに」と、変に強制誘導しようとせず、子どもが昨日までできなかったことをできたその瞬間に「やったー!」と一緒に驚き、喜べば、その子はその子の最速で成長するように思う。

私はこれまで、公立中学で学年最下位クラスの子どもを4人面倒見てきた。全員平均以上の成績になった。下から数えて五本の指に入る成績だと、先天的に学習に向かないとレッテルを貼られても仕方ないと思われがちだが、私は4人とも、私より頭が悪いと思えなかった。後天的影響が大きかった様子。

親が良かれと思って与えた環境が子どもに合わなかった。
4人に共通して言えたのは、子どもが受動的な立場に置かれていたこと。子どもが能動的に動ける環境を与えられていなかったこと。
そのうちの一人は、おばあちゃん子だった。かなり大きくなってもスプーンで口に持っていく有様。着替えも。

その子はどうやら、何でも構いたいおばあちゃんのために、自分で食事や着替をするのを諦め、能動的に何かするのをすべて諦めさせられ、心のお花畑に逃避することだけが唯一残された能動性だったらしい。

この子は、自分が能動的に取り組めば、絶対わからないと思っていた学校の勉強もデキるようになっていく、と気がついたとき、能動性を取り戻した。能動性を発揮したとき、こちらは「よく自分で乗り越えた!」とそのつど驚いて見せた。その驚きが嬉しくて、能動性がますます強まって、成績を上げた。

私が思うに、後天的に能力を抑えられてしまっている子どもは非常に多いように思う。そしてその原因の大半は、子どもから「能動的に楽しむ」ことが奪われ、「受動的に引きずり回される」ことにあるらしい。私の塾は一時「不良塾」と呼ばれるくらい問題児の多い塾だったので、余計にそれを感じた。

いわゆる不良、非行と呼ばれる子どもたちは、親からあれをしろ、これをしろと従わさせられる受動的な環境を拒否し、自分が能動的でいられる環境として、反社会的な方向に向かわざるを得なかった、という感じがしている。これは気性のしっかりしている子の場合。しかし大人しい子だと。

気力、意欲を根こそぎにされ、無気力になってしまいがち。子どもの学習意欲は、親や指導者が能動的で、子どもが受動的な環境に置かれるとき、枯渇してしまうものらしい。

私は、逆の方がよいと考えている。親や指導者が受け身、受動的で、子どもが能動的になる環境。子どもが能動的に動き、これまでできなかったことができたとき、大人がそれに驚き、面白がる。こうした環境に身を置くと、子どもは能動的に動くことがとても楽しくなり、どんどん能動的になっていく。

こうした、子どもが能動的になれる環境が整うと、子どもは急速に能力を伸ばす。子どもだけでなく、おそらくは大人さえも。
子育ての要諦はつまるところ、子どもたちが自ら能動的に学ぶことを楽しみ、自ら勝手に成長していくように育てることだと思う。それには、環境を提供する側である大人が。

大人が受動的な立場となり、子どもが能動的になる環境を整える。そこがまず基礎になるように思う。この環境は、どうやら子どもの個性に関係なく、どの子どももそれぞれの個性を発揮しながら能動的に成長する土台になるようす。こうした場がもっと増えればなあ、と考えている。

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