教えない、ただ、工夫・発見・挑戦に驚く

まだ息子が幼稚園に入ったばかりの頃、かけ算のことを聞いてきた。「3×2なら、3個のが2列並んでるってやつ」とだけ教えると、息子は以後、かけ算の研究を始めた。4×3なら、4個の点を3列並べて「いち、にい・・・」と数えて答えを求めていく、地道な作業。それを毎日毎日。

それを膨大に重ねてるうち、「3×2と2×3みたいに順番が逆になっても、答えは同じ6」という「発見」をした。私はたまげた。「よくそれに気がついたな!」
順番が逆になってもかけ算の答えが同じになるのを交換法則というらしいけど、息子はそれを自分で「発見」した。教えもしないのに。

息子はあらゆるかけ算を何度も何度も繰り返し、そのつど、粒の数を数えて、「何度数えても4×3は12だし、3×4も12。他の掛け算も、順番が逆になっても常に答えが同じになる」ことを、膨大な経験から見抜いた。これだけ膨大な経験を積めば、ある意味、その発見をするのは当然なのかもしれない。

息子は早くに文字式の計算もするようになってる。いわゆる代数。数学がことのほか好きなのだけど、能力が生まれつき高いとは思わない。あんなに数字の計算を飽かず繰り返したら、そりゃ教えられずとも様々な法則を見つけられるだろう、と思う。愚直さが息子の数学的センスを磨いてる。

私は理系のクセに数学がどうにも苦手。今も苦手意識は抜けない。YouMeさんも数学は得意ではない。そんな両親でも数学が得意な子どもは育てられるのか?そんな実験を息子に施すことにしてみた。そして私のとった仮説は、「教えない、ただ驚く」というもの。

息子が数字のことで、教えもしないのに昨日できなかったことが今日できた、あるいは昨日まで気づかなかったことに気がついたなら、私は「教えられもせずによくそれに気がついたな!」と驚いた。まあ実際、教えてないのによく気がつくなあ、と感心せざるを得ない。

息子は息子で、何か数字や数学で気づきがあると、それを私に披露するのが楽しいらしい。私は「よくもまあ、親が何も教えないのにそんなことに気がつくよなあ」と驚くと、息子はしてやったりと思うらしい。

実は子育てって、これだけでよいように思っている。親は教える必要はない。子どもが勝手にどこかから学んできた、あるいは発見した、あるいは工夫した、その様子に驚き、面白がっていれば、子どもはますます親を驚かすために鵜の目鷹の目で学び、成長しようとするものだと考えている。

子どもは親を驚かすのが大好き。ならば、親はひたすら驚いていればよいのだと思う。親が驚く様子を見て「今度はどんな発見や工夫、挑戦で驚かしてやろうか」と企む。発見や挑戦、工夫に親が驚いていると、子どもはものすごい勢いで様々なことを吸収する。

私は子どもの発見、挑戦、工夫に驚ける状態に自分を置くため、教えないことにしている。教えてしまうと子どもは親がそれを知ってることに気づいてしまう。すると自分がそれを発見しても、親は驚かないことに気がついてしまい、つまらなくなる。その分野に興味を失う。親が得意とする分野に興味を失う。

私はだから、息子に教えない。聞かれた時は答えるけど、最小限にとどめる。すると息子は自分で研究し、いろんな工夫を重ね、新たな挑戦をし、発見する。私は、教えもしないのに発見できることに驚く。驚くと、息子はさらに自分の力で発見しようと工夫を重ねる。

ああ、本当に教えないでいいんだな、むしろ教えない方がいいんだな、と思う。教えないから「驚き屋」でいられる。驚き屋でいるから息子は数学の発見を楽しむようになった。今は、私が驚くかどうかを別として、数字のことを考えるのが楽しくてならないらしい。

もう、数学好きの傾向は私がいなくても変わらないだろう。私の役目は、驚くことで助走のいきおいをアシストすること。挑戦し、発見し、工夫することの楽しさを知り、親がいなくなってもそれを続けることの楽しみに気づいてもらうこと。人生において、学ぶというのはかなり面白い遊びなのだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?