「科学的に証明された」考

いまでも時々、新聞やSNSで見かけることがある。けれど「証明」ができるのは数学くらいで、自然現象を相手にする実験科学や観察科学では「証明」がムリ。せいぜい「強く示唆される」、「妥当と思われる」という表現がせいぜい。

自然現象を扱う科学(数学除く)の場合、どんな理論にも「反証可能性」を示す必要がある。「こうした証拠(反証)が示されたら、この理論が間違っていたと認めます」という弱点を、自らさらけ出すというもの。見方を変えれば、どんな理論もいつかは覆る宿命であることを認めるのが科学の理論。

絶対正しい、どんな反証を示されても理論の誤りを認めない、という頑迷な理論、傲慢な理論は科学たり得ない、というのが、ポパーの提案。これは妥当だと思う。たとえば「宇宙人はいる」という主張は、反証しようがない。いるかもしれないが、いないとは証明できない。宇宙をくまなく調査は不可能。

こうした、反証しようがない主張は、科学の理論たり得ないとして、科学の検討対象から外すことになる。ただし気をつけなければならないのは、その主張を否定しているわけではない、ということ。宇宙人はいるかもしれない。しかし現代の科学が扱える課題ではないと諦める、ということ。

どんな科学の理論(数学除く)も反証可能性という弱点を示さなければならない。そのことで初めて科学の理論たり得る。ということは、絶対正しい理論は、数学を除き、ないということになる。
と表現すると、「すべての理論は疑わしいところが残るから、信じなくてよい」とニヒルになる人も。

すべての理論に反証可能性という弱みを認める代わり、むやみに否定しない、その理論の妥当性を認める、という「素直さ」が求められる。
まあ、反証可能性を認めてる時点で「理論」というより「仮説」。ただし、ある程度検証が済んで、妥当性が確認されてる仮説を「理論」と呼んでる格好。

一応、検証を経てる仮説だから、闇雲に取り組むより、素直にその仮説(理論)に従って考えた方がトラブルが少ない。科学は、(数学を除く)あらゆる理論に反証可能性という弱点を示させると同時に、むやみに否定したり疑ったりせず、妥当性を認める素直さも求めている。

もし反証が示されたら理論の誤りを認める謙虚さがある者に、むやみと否定したり罵倒したりしない謙虚さを。それが現代の科学では求められている。
数学以外の学術論文で、「証明された」は使えない表現。「~であることが強く示唆される」が精一杯なのは、こうした理由による。

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