専制・独裁の潮流変化

今回、プーチン氏が「裸の王様」であったことが明らかになったことで、世界の潮流が変わるように思う。
このところ、専制的独裁的な国で元気な国が目立ち、日本でも「独裁が必要だ」なんて言葉が出るようになっていた。独裁への憧れが強まっていた。

しかしプーチン氏が恐すぎて正しい情報を耳に入れる人間がいなくなり、耳に心地よい情報ばかり入れる曲学阿世(学問をねじ曲げ、世におもねる)な人間ばかり引き上げ、事実を認識できなくなっていた。他方、ウクライナは圧倒的不利を耐え忍ぶための現実的な準備を進めていた。

プーチン氏は、本気でウクライナの人々に歓迎されるつもりでいた様子。部下たちは、ウクライナ国民がロシア支配を待望してると、耳ざわりのよいことばかりプーチン氏に聞かせていたらしい。それを真に受けたプーチン氏は、今回の暴挙に出た。

本来、諜報機関というものは、聞きたくないことも事実をありのまま上に報告するのでなければ、諜報活動として成り立っていない。しかし並ぶ者なき権力者になってしまったプーチン氏に、諜報機関でさえ事実を告げられなくなってるとすれば、プーチン氏は完全に裸の王様になっていた、ということだろう。

私たちの脳は、五感が情報を伝えてくれるから現実を把握し、それにあわせた行動がとれる。いくらプーチン氏が優秀でも、五感にあたる部下たちが事実を伝えてくれなければ、五感を遮断された脳のようなもの。五感を遮断されて身体に動けと命じれば、チグハグになる。

日本の指導者はプーチン氏に憧れを持っていたらしく、ロシアをまねた体制づくりが進められていた。NHKに意中の人間を送り込んだり、マスコミの社長とひっきりなしに会食したりして、マスコミを牛耳ろうとした。ロシアよりずっと温和なやり方とは言え、意図は似ている。実際、報道内容も影響受けた。

日本もフィリピンも、そしてアメリカまでも、専制的独裁的な指導者を待ち望む空気が強まっていた。しかしプーチン氏という、恐らく個人としての能力は非常に高い人物が、耳の痛い話は聞きたくない、という独裁にありがちな姿勢を見せたことで、簡単に裸の王様になり果てた。この事実は重い。

私は実のところ、耳に痛い話も聞き入れる度量があるならば、専制的な君主制でも国民は幸せになれると考えている。ところが難しい。専制的独裁的な立場の人間は、いずれ耳に心地よい言葉を聞かせてくれる部下を身近に置こうとする。その結果、裸の王様になってしまう。専制的国家の限界。

古代中国で名君と言われた人は、必ず争臣(耳に痛いことも平気で口にする部下)を置いていた。それにより軌道修正をはかるようにしていた。
三国志の雄、呉の孫権は若い頃、耳に痛い話をしてくれる部下に「ありがとう」と感謝できる人間だった。ところが老人になると。

耳に痛い話を遠ざけ、心地よい話をする人間の言うことばかり聞くようになった。それで大騒動が起きたとき、「なんで誰も教えてくれなかったんだ」と孫権は怒ったが、それは孫権が耳に痛い話を嫌がったからだ。

現代では、耳の痛い話をする争臣の代わりに存在しているのがマスメディア。権力者の聞きたくない話も取り上げることで、権力者の軌道修正を図るしくみとして機能している。しかし権力者がマスコミを牛耳ってしまえば、諫める機能が失われる。

しかもSNSなどインターネット企業が、広告というマスメディアの重要な収入源を奪ってしまい、マスコミの体力低下。よけいに権力者の思い通りになりやすくなってしまった。
SNSはまだ、権力者の「争臣」たりえていない。仕組みの不全が補えていない。

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