無関心が凶悪犯罪の温床ではないか

今回、安倍元首相が殺された事件については詳細が明らかになっていないが、不気味なのは、もしかしたら組織的なものではないかもしれない、という点。もし党派色のない、全く個人的なものだとしたら、同様の事件を防ぐことは非常に困難になる。

組織によるものならば、その組織を殲滅させればよいこと。しかし全くの個人で、思想性も特にないとしたら、とらえどころがなくなる。そしてどうも、その可能性が高いように感じる。もしそうだとしたら、今回の事件は、子どもたちなど弱い者を狙った凶悪犯罪と似通ってくる。

秋葉原殺人事件や池田小殺人事件など、見境のない、何ら犯人と関係性のない人たちを殺した事件で共通するのは、犯人の孤独。もしこの世から存在が消えたとしても、誰も気にも止めないのではないか、という強烈な孤独感。社会からの無関心。

マザー・テレサが引用したという言葉に、愛の逆の言葉は憎しみではなく、無関心だ、というものがある。誰からも気に留めてもらえない無関心。これは、人間にとって非常に厳しいもののように思う。
江戸時代でさえ、村八分にしても、二分は関心を残した(火事と葬式)。今は100%無関心があり得る。

凶悪犯罪のいくつかは、社会が自分の存在に無関心であるなら、犯罪でもよいから関心を向けさせてやる、という自暴自棄な衝動を感じる。
戦後昭和は、非行に走る少年が少なくなかったが、そうした少年は親が子供に無関心だったケースが多い。無関心は、心を平常に保つのを難しくする。

ややこしいのは、凶悪犯罪を犯した人達が、必ずしも親の愛を受けていなかったわけではない、という点。むしろ親の庇護をきっちり受け、本人も子供の頃は優秀で、将来を期待されていた子供だったりする。
しかし歯車が噛み合わず、人生が狂ったと感じたとき、今の日本は厄介な側面がある。無関心。

昔はお節介があり、地域の祭りがあると「お前も出ろ!」と引っ張り出され、だんじりを引いたりした。地域の運動会があれば「若いの、綱を引け!」と引っ張り出された。なかなか孤独でいさせてもらえなかった。しかし今の日本社会では。

交換可能な部品のような扱いでただ働き、家で寝るだけの日々。誰とも言葉を交わすことなく。自分がいなくなっても誰も気にも留めないだろうな、という孤独感。子どもの頃にそうなるとは考えていなかった、社会からの無関心。第三者から必要とされていない感。社会のどこともつながっていない感。

社会がオレに無関心でいるなら無関心でいられなくしてやる、そんな思考回路が一部の人間で生まれ、それが行動に移っても不思議でないほど孤独が広がっている。社会から無関心という不作為を受ける人々が増えている。子どもや女性など、弱い者に向けられていた凶悪行為は、無関心から生まれたのかも。

これまでは弱者に向けられてきた、無関心への報復が、今回、ついに権力者に向けられ始めたのだとしたら。そうではないのかもしれない。しかし、私と同様に感じる人はいる。ということは、やはり他にもそう感じる人はいるのかもしれない。もしそうだとしたら。

社会のあちこちで無関心が増殖している日本で、この手の犯罪を食い止めるのは難しい。無関心がある限り、孤独に追いやったものへの言いしれぬ怒り、恨みが生まれるのを防ぐことは困難だからだ。

唯一、同種の犯罪を減らす、未然に防ぐことができるとすれば、それは、無関心を減らすこと。できればなくすこと。たとえ親の庇護から離れても、社会という「第三者の海」で泳ぎ始めても、誰かしらが関心を持ってくれる社会。誰かが自分を面白がってくれる社会。興味を持ってくれる社会。

江戸時代の人達が村八分にとどめたのは、無関心がとんでもない憎悪を生むこと、報復を生むことを知っていたからだろう。だから葬式と火事だけは助けたのだろう。しかし今の日本では100%無関心があり得る。孤独が憎悪を生み、憎悪が自暴自棄な報復感情を育てかねない。

今回のような事件を繰り返さないようにするための唯一の方策は、社会から無関心を少しでも減らすこと、なくすことではないか。
「自分は生きていていいんだ、生まれてきて良かったんだ」と思えること、これが担保できる社会になること。それが今の日本では心もとない。

どうか、同じ悲劇を繰り返さないように。そのためにも、無関心という、時に死ぬよりも苦しく悲しい状況に立たされている人の数を減らせるように。
私達が目指すべきことは、それではないだろうか。

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