「誰もとりこぼさない覚悟」はなぜ必要なのか

これから起こる大変化に対し、富裕層は自分たちだけでもこれまで通りの快適な生活を維持しよう、そのためには貧困層がますます貧困に苦しむことになってもそれは弱肉強食の世の習いだからやむを得ないことなのだ、と割り切ろうとしている様子を感じる。しかしことはさほど容易ではないように思う。

リチャード・ウィルキンソン「いかに経済格差が社会に支障をきたすか」というプレゼンでも示されているように、格差を放置すれば富裕層も引きずり下ろされるようにデメリットが増える。乳児死亡率はどうしたわけか、格差のある社会では富裕層でも高くなる。
https://digitalcast.jp/v/11187/

「昔(戦前)はお手伝いさんがお金持ちの子どもを殺したって事件が相次いでね」。祖母の知人に小人症(背が子どもくらいしかない症状)の人がいた。その人の家は大変お金持ちだったけど、叱られて腹を立てたお手伝いさんが赤ちゃんだったその人を床に叩きつけ、命はとりとめたものの背が伸びなくなったという。

アメリカではベビーシッターによる赤ちゃんへの虐待が問題視されているという。富裕層はお金があるからベビーシッターに赤ちゃんの世話を頼む。他方、ベビーシッターを引き受けるのはしばしば貧困層。もしお金持ちが貧しい人に差別的な考え方をしていたら、事件が起きる確率はかなり上がるだろう。

自分達だけ豊かな生活を守ろうという心根は、貧しい人を切り捨て、どこかで蔑む心理を生むことになる。そうでなければ良心がチクチクして痛いから。しかしそうして心理的に見捨てた過程を経ると、貧困層の人にベビーシッターを頼むときにも侮蔑的な態度が現れる確率は増えるだろう。仮に気をつけても。

貧困に苦しむ人は、そうでなくても「富裕層から蔑まれているのではないか」と、その証拠を探す心理になりやすい。そんな中、ベビーシッター自体に失礼な態度を取らなくても、どこかで貧富の格差を当然視したり、貧困層を見下す発言が飛び出すと、地雷を踏むことになりかねない。

もちろん事件を起こせばその人は罪に服さねばならず、メリットはない。しかし貧困は、犯罪へのハードルを下げる。なぜなら、貧しい暮らしがすでに苦しく、牢獄の生活とさして変わらない印象になりやすいから。同じ苦しいのなら、自分たちを見下す存在に一矢報いたい、という気持ちを起こしやすい。

山本周五郎の作品。娘が殺人を自白した事件が起きた。しかし近所の評判のよい娘がそんなことをするとはと疑問に思った主人公は、丹念な調査によりその娘の無実を証明する。しかしその後判明した事実で、主人公は打ちのめされる。

娘は父親の介護と幼い弟妹たちを抱え、貧しい生活を支えるべく奮闘していた。そして疲れ切っていた。いっそ死にたかった。だから嫌疑をかけられたとき、すべてを終わりにしたくて自分が殺したとウソの自供をした。
主人公が無実を証明したために、娘は再び死ぬより辛い生活に戻ることに。

ウィルキンソン氏がプレゼンで指摘しているように、他国より自国が貧しいことはさして問題にならない(不満は起きにくい)が、自国内で格差があることは、妬み、恨みを増幅させ、社会を不安定化させ、富裕層さえも引きずり下ろされるように安心を損ねることになるという。

私のツイートに対しても、実力ある者が豊かになり、能力に欠ける者が貧しくなるのは仕方ない、と語りかけてくる人が今年になって数多い。弱肉強食なのは仕方がない、それは世の習いなのだ、と。しかしそうして貧困層を見捨てる心理は、翻って富裕層を見捨てる心理を呼び起こす。報復心理を惹起する。

「韓非子」にあるエピソード。孔子の弟子が裁判官になり、ある男を脚斬りの刑に処した。
孔子一行が国王に睨まれ、弟子も一緒に逃げることに。しかし包囲網を築かれ絶体絶命に。そのとき、脚斬りの刑に処された男が逃亡を手助けし、孔子一行は難を逃れることができた。

裁判官だった弟子は不思議がった。「私はあなたに脚斬りの刑を宣告した。あなたは私を恨みに思っても不思議ではないはず。なのにどうして助けてくれたのか?」
男は答えた。「あなたは私の事情を知り、なんとか罪を軽くできないかと悩み苦しんでくれました。私が脚斬りになるのは仕方ないのです」

このエピソードほ大切なことを教えてくれる。もし弟子が「お前が脚斬りになるのは当然だ」と考え、犯罪者を見下すような侮蔑的な態度をとっていたら、男は決して助けようなどと思わなかっただろう。むしろ「あそこにいますよ」と密告し、ざまあみろと舌を出していただろう。

しかし弟子は、犯罪の背景にある事情を知り、自分も同じ立場に置かれたら同じことをするだろう、と、同じ地平に立って考え、なんとかならないかともがいたから、男は嬉しくなったのだろう。「自分を対等に見、対等に接しようとこの人はしてくれている」。だから一肌脱ぎたくなったのだろう。

いま、富裕層の人達、あるいはそう自認してる人達が、平気で貧困層を見下し、見捨てる発言を繰り返していることが気になる。自分に危険が降り掛かってくることはないとタカをくくっているのだろう。犯罪を冒して罰せられるのは貧困層の方なのだから、と、法の壁に守られていると安心しているのだろう。

しかし法が金持ちを守る盾となり、貧困に苦しむ人達を突き落とし、這い上がることを拒む断崖絶壁として機能するなら、法は守られるべき動機、理由をすでに失いかけているのでは。法は万人を守るときに皆に大切にされるが、一部の人間だけが尊重されるなら、法は貧困層を突き落とすものでしかなくなる。

そんな機能不全に陥った法に守ってもらえると安心するとしたら、それは甘すぎる。歴史は、法が社会の一部のヒトだけをえこひいきする形でしか機能しなくなったとき、国家は大きく揺らぐことを教えてくれている。法は万人のために機能するものであり続ける必要がある。

心理的安全性はお金では買えない。それを得るには、誰も取りこぼさないように努力する、孔子の弟子が見せた不断の努力が必要。その努力を放棄し、見捨てることを当然視したとき、心理的安全性は崩壊し、法は守られる保障を失い、社会は不安定化する。社会は、社会に生きる人達で支えられるのだから。

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