〜主義、〜論は「リュクールゴスの亡霊」

私の文章を読んで左巻きだとか、〜主義に似ている、何々論に近い、と指摘されることがある。しかし私は自然科学者だからか、そうした分類にあまり興味がない。自分が何々主義だとか、何々論に立つなどと考えていない。あえて言うなら私は現実に対して忠実なしもべでいたいと思っている。

中世西洋では、治療といえば何でも瀉血(悪い血を抜くと称して出血させること)で治療していた時代があった。症状に合わせて治療法を選ぶという発想がまるでない。当然、瀉血されて体調を悪化させ、死亡するケースも多かった。しかし治療法が悪いとは考えず、すでに患者は手遅れだったのだ、と考えた。

私は今、格差が大きすぎることが日本社会の病弊だと感じている。その処方箋は格差をなんとかして小さくすることだと考えている。しかしそれを指摘すると、左巻きだとか共産主義だとかレッテルを貼ろうとする人が現れる。

つい先程も、「日本社会が元気がないのは甘えているからだ、どん底に叩き落して苦しめばハングリー精神を取り戻すだろう」という「治療法」を述べる人がいた。私には、この処方は中世西洋の瀉血と何ら変わらないように見える。患者を診て適切な治療法を施そうとする意志をまるで感じない。

興奮しすぎている人には鎮静を、生気を失っている人には休養と栄養とリハビリを、というように、治療はまず、患者の観察(診察)から始めなければならない。自分の治療技術を振るいたくて、どんな患者にでも同じ治療法を施すなら、その医者は間違いなくヤブ医者のそしりを受けるだろう。

私は、現在は格差是正を訴えているが、もし公平が行き過ぎ、社会の活力を損ないかけていると感じたら、そのときは別の提案をする。私の考えでは、「社会の活力」と「不幸に苦しむ人の最小化」が指標になっており、そのために有効な処方をその都度考える立場。

ところが何々主義者や何々論に立つ人は、社会がいまどういう状況であろうと、同じ処方箋で対応しようとしている感がある。私には、それは何でも瀉血で治療しようとする中世西洋の医者と瓜二つに見えて仕方ない。

私は、社会に活力がみなぎり、不幸に苦しむ人が減る処方があるなら、ダボハゼのように貪欲に学び、取り入れたいと考えている。だから何々主義とか何々論に囚われる気がまるでない。レッテルを貼ろうとしている人たちは治療したいのではなく、仲間か敵かにこだわってるだけな気がする。

なお、医師は最も可能性の高い仮説(診断)に基づいて治療方針を決め、「これで一週間様子をみましょう」と言う。診断も、数ある仮説の一つに過ぎず、別の病気である可能性を捨てず、とりあえず可能性の高い病気を仮定して治療を施す。もし見込み違いだったら、柔軟に治療方針を変更する。

私も、とりあえず、妥当性が高いと思われる仮説を述べるし、それに基づいて方針を提案するけど、常に「仮説」であり、見立てが誤りである可能性を常に片隅に置いている。こうした考え方が広がると、社会はもっと柔軟に動くような気がする。

こういう考え方に至る一つのきっかけは、野球のイチロー氏。
昔、王貞治さんが活躍していた頃は「理想のバッティングフォーム」という言葉がスポーツ番組で出てきたし、イチロー氏が活躍し始めた頃も、そのバッティングフォームを「理想の〜」なんて表現していた。これをイチロー氏は破壊した。

一つのフォームを続けていると筋肉のつき方に偏りが出て、その影響で同じフォームができなくなる。また、ピッチャーも対策重ねるから同じフォームだと打てなくなる。だから常にバッティングフォームは変化させなきゃいけないと繰り返した。この結果、ニュースのスポーツ解説から「理想の」が消えた。

「理想の〜」を生み出した哲学者がいる。プラトン。「国家」という本が典型的だけど、ソクラテスのように優れた人間に国を治めてもらえば理想の国家になるだろう、と主張した。プラトンのその着想は、アテネのライバル都市、スパルタに伝わる中興の祖、リュクールゴスの伝説にヒントを得ていた。

リュクールゴスは、スパルタ人の慣習や国家システムをデザインし、スパルタが強国になる礎を築いたとされる伝説的人物。このエピソードにヒントを得て、プラトンは哲人国家という「理想の」国家を描いて見せた。こうしたプラトンの考え方は、その後「理想の〜」という考えを普及させることになった。

極めつけはデカルト。「方法序説」には、再びリュクールゴス伝説が登場する。優れた人物が国を治めれば理想の国家ができるように、思想においても、完全無欠な理想の思想を生み出すことが可能、と主張した。この主張は以後の哲学者を魅了し、「理想の〜」をみんな追求するようになった。

しかし、「理想の〜」は幻想だと思う。その点、プラトンもデカルトも「何言うてるねん」でいいように思う。陸上選手のウサイン・ボルト選手は人類最速の男だけど、若い頃、「理想のフォーム」を押し付けられている間は成績が伸びなかったという。ボルト選手は独特な背骨の曲がりがあった。

しかし自分なりのフォームを模索する中で、背骨が曲がり、右足と左足で歩幅が違うことも逆に利用することにより、世界最速の記録を打ち立てることに成功した。「理想の〜」に囚われず、現実をよく観察し、仮説を立てては試行錯誤を繰り返したから見つかったと言える。

今のプロ野球選手のバッティングフォームを見るとみんな個性的。「理想の〜」という幻想が消え、それぞれの人にあったフォームを探すようになったからだろう。プラトンやデカルトの呪縛からようやく解き放たれたと言える。この二人とも言及していたことを考えると、この呪縛は「リュクールゴスの亡霊」。

思想や主義、何々論に囚われるのは、「リュクールゴスの亡霊」に囚われているからではないか、と思う。「理想の〜」なんてありゃしない。万病に効くなんていう都合のよい薬はない。冷え性とほてる症状とでは処方が違って当たり前。

大切なのは現実をよく観察し、それによって湧き上がる仮説に基づいて試行錯誤し、結果をまた観察して仮説をバージョンアップする。このことの繰り返し。
「理想の〜」という幻想から、言い換えれば「リュクールゴスの亡霊」から離れることを、そろそろ考えてもよいのではと思う。

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