「ありのままの自分」って?

今日は「ありのままの自分って?」というテーマでウェブ飲み会。立場も住んでる場所も年齢も多彩な15人が集まっておしゃべり。実にいろんな意見が出てきて、楽しかった。

「ありのままの自分」って、若い頃はすごく悩む。自分はどう見えているかが気になって、嫌われたくなくて。で、相手にいい顔をしようとする。でも「いい顔」は無理をしているから本当の自分じゃない気がして、疲れてくる。疲れていても同じ顔を続けなきゃ、という呪縛に囚われて。

ついに「本当の自分って?」が分からなくなって、悩んでしまう。若いうちは起きがち。
これが不思議と、トシをとるとどうでもよくなる人が多い。「どれだけ取り繕っても、俺はこの程度だな」というのが分かってくると、もう等身大の自分のままでいいや、と腹をくくれるようになる。すると楽になる。

でも、トシを食ってもなかなか仮面を脱げなくなる場合もある。パートの募集をすると、ここ数年は男性の応募も多いのだけれど、以前は男性が応募してくると、マウントしかけてくる人が少なくなかった。「ついこないだまではあなたたちの立場で、品定めしていたんですけどね」

とある大企業2社の人を引き合わせた時のこと。和やかに食事しながらの歓談、という表面上とは別に。「私は何億の仕事をとりつけたことがあって」「それはすごいですね、私も昔、十何億の仕事を何々社と」「あ、その会社とは私も取引があって」自分の方がビッグビジネスをやってきたマウント合戦。

そう考えると、トシをとっても仮面がすんなり脱げるわけではないらしい。自分を大きく見せよう、なめられてはいけない、という強がりを、いくつになっても続けてしまう人がいる。それは文化的歴史的なものなのか、日本の場合は男性に多い。昔を語り、肩書を語り、自分を大きく見せようとする。

年配の男性になると、仕事の話以外の会話の仕方を知らない人がいたりする。このため、会社以外の人間関係を作る方法を知らなかったりする。それで、仕方なしに昔の肩書や学歴、やり遂げた仕事などを語って、「すごい」と言ってもらおうとする。

ある程度年配の人になると、スナックなどで接待などが当たり前だったせいか、お店の女性に「さしすせそ」(さすが、しらなかった、すごい、センスいい、そうなんだ)を言ってもらっていたためか、知識のあるところ、仕事の大きさを語るクセを身に着けているのかもしれない。

しかしそれは飲み屋でお金を払うから成立するコミュニケーション。そうでない場所でどうやったらコミュニケーションをとればよいのか。おそらくは別の方法を見つけないと、なかなか自分を受け入れてくれるコミュニティを見つけるのに苦労することがあるのかもしれない。

私のところに、いじられキャラの学生が来た。みんなからいじられていて、「えへへ」と笑っている。
後で二人で話す機会があった時、「君はいじられて、どういう気持ちなの?」と聞くと、実はすごく不愉快だという。ではどうしていじられキャラを演じ続けるのかな?と聞くと、恐い、という。

いじられキャラなら、普段経験しているから、たとえ不愉快な思いであってもそれをどう処理すればよいのか、慣れている。けれどもし別のキャラを演じた時、相手がどんな反応するかわからない。それが不安で、いつものいじられキャラを演じ続けてしまう、ということらしい。

私は「旅に出てごらん」とアドバイスした。旅で出会う人は、君を知らない人。だから、君が以前いじられキャラを演じていたことも知らない。そうした初対面の人に実験させてもらいな。君もドラマとか小説とか漫画でいろんなキャラを知っているだろう。穏やかキャラ、勇敢キャラ、キリっとキャラ。

ふだん演じたことのないキャラを演じて、相手がどう反応するのか、実験してごらん。そうした経験を積むと、だんだん自分が相手にどう対したら相手がどう反応するのかが見えてくる。旅でいろんな自分を演じて、いろんな経験を積んでごらん。

その学生さんは自転車旅行に出た。それからもちょくちょく旅に出たようで、次第にいじられキャラから脱却していった。いろんな「実験」を重ねることで、無理していじられキャラを演じなくても関係性を作れるのだというのが分かってきたらしい。

私も若い頃は悩んでいた。確固たる自己を作ろうとして。デカルト読んで影響受けたのがまずかった。確固たる自己を作ろうとしたけれど、ちっとも作れやしない。ガタガタ。みっともないったらありゃしない。こぎとえるごすむ?それがどうしたちっとも役に立ちゃあしねえ。

阪神大震災で、私は大きな影響を受けた。当時、避難所には実に多彩な人たちがいた。社会的地位も学歴もてんでバラバラ。そしてそうした外側の「殻」が何の役にも立たなかった。しかし一点、ボランティアたちに共通した意識があった。「いま、ここで何ができるのか?」

あいつはこれをやっている、なら俺はこれをやろう、私はこれは苦手、でもこれならできそう。その状況をよく観察し、何が必要かを把握し、それにとりかかる。もっと得意な人がいたらその人に任せ、自分はもっと他のことで貢献できないかを探す。そのとき、会社だとか学歴だとか何の役にも立たなかった。

私の人の付き合い方は、その後、それになった。「社会的地位?学歴?はいはい、そうなのね。で、あなたは今、何を思い、何をしようと思うの?」外側の殻なんかどうでもいい。今、あなたと私がいる。で、どうする?という付き合い方。

「ありのままの自分」ってテーマを掲げたけど、実は自分なんて忘れちまった方がいいと考えている。「自分」なんて言うから、自分という確固たる存在があるかのような気がしてしまう。食品の裏を見ると、こまごまと成分表が書かれている。パソコンはCPUとかHDDのスペックが書いてあったりする。

自分というのも、成分が明らかで、スペックがはっきりしている、確固たる自分があるように思ってしまう。ところが残念ながら、そうではない。自分なんて、その場その場で変わってしまう。というか、自分なんてない。相手と対している「関係」があるだけ。

たとえば「鉄」と聞くと、鉄という名の確固たる存在があるような気がする。ところが鉄というものを理解するには、鉄以外との出会い、関係性を知るより方法がない。海辺の潮風に当たっているとすぐ錆びる。夏の太陽を浴びると無茶苦茶熱い。冬は冷たい。電気を通す。磁石にくっつく。固い。

このように、鉄という概念を理解するには、鉄以外の事物との出会い、関係性から、鉄というのはおぼろげにこういうものなのかあ、というのが浮かんでくる。でもそれはあくまでおぼろげ。だから概念(おおむねの想念)と呼ばれている。そして鉄は、夏の太陽光線との関係性では、「無茶苦茶熱くなる」。

冷凍した鉄を触るとくっついて離れなくなる。包丁の形にすると切ることができる。などなど、関係性の中で、私たちは鉄をはじめて理解する。つまり、鉄そのものを理解することはできない。鉄以外のもので輪郭を描いてもらう感じ。決して鉄そのものを理解することはできない。

同様に、私たちは自分そのものを理解することはできない。他者との関係性で、相手がこんな風に反応した、という「輪郭線」を頼りに、自分を把握できたと感じているだけ。でも、自分というのはしょせん、他者と触れ合うことで見えてきた輪郭線より内側のことを指している言葉でしかない。

だから、自分なんて忘れちゃった方が良い。あるのは他者との関係性だけなのだから、関係性を変える実験をいろいろしてみたらいい。関係が変われば、自分はこういうものだ、と思っていたのが、全然変わってしまう。相手の反応が変われば自己イメージも変わってしまう。他者によって縁どられているだけ。

だから、「ありのままの自分」なんて考えずに、相手に対してとっているコミュケーション手法を、いろいろ実験してみるとよい。でも、普段の人間関係だとリスクを感じるのはよくわかるから、旅に出たり、知らない人に会って、いろいろ試してみるとよい。その試行錯誤で得たデータベースが。

様々な関係性の作り方のデータベースになる。その関係性で縁取られた「自分」(のような気がするおぼろげなもの)もどんどん変容する。それを楽しむことが、もしかしたら「ありのままの自分」でいる人、のような気がする。

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