国葬をめぐる意見の分断

安倍元首相の国葬に賛成する人と反対する人に真っ二つに分かれている。安倍元首相と政策で一致している部分が大きい人は国葬に賛成し、一致することの少ない人は反対する、というように、スパッと分かれている印象。なぜこんなにもスパッと分かれるのだろう?

これまでは、亡くなった人の悪口は言わないものだ、というのが不文律であり、中曽根元首相を国葬にするかどうかについても異論あったが、中曽根元首相のことを悪し様に言う向きはやや小さかったように思う。しかし安倍元首相にはどうも遠慮のない人が多い。なぜだろう?

これは私の仮説なのだけど、安倍氏は「自分と異なる意見を嘲弄冷笑する」ことを、国のリーダーとして初めて実行に移した人だからかもしれない。
安倍氏以前のリーダーは、自分と異なる意見でも真摯に耳を傾けるポーズを大切にしてきた。しかし安倍氏は明らかに愚弄するタイプだった。

異なる意見に対し平気で愚弄するといえば、トランプ前大統領がダントツにあからさまだったが、世界を見渡しても、先進国では日本が一番最初に「異なる意見は嘲弄冷笑する」を実践したのが安倍氏であり、その点でイノベーターであった。

安倍氏は言論を弾圧していない。例えば安倍氏を悪し様に言う言論をかなり野放しにしていた。しかし安倍氏の「嘲弄冷笑」は、論敵に対して、もしかしたら弾圧するよりも効果的にその説得力を奪うのに成功した。安倍氏の周りには、一緒になって嘲弄冷笑する仲間がいたからだ。

しかも、一体どういう動員をかけたのかかけてないのか、ネット、特にツイッターでは安倍氏の主張に敵対すると思われる意見に対しては嘲弄冷笑の集中砲火を浴びせる輩が大量発生した。どうやら同一人物が複数アカウントでそれをやっていたようだが、そのエネルギーが実に執拗だった。

それは、文化大革命での紅衛兵に動きが似ていた。毛沢東はスローガンを口にしただけ、扇動しただけで、紅衛兵への直接的命令系統は無かったにも関わらず、毛沢東の言葉を背景に紅衛兵は中国全土を暴れまくり、毛氏に逆らう人間をことごとく吊し上げた。

安倍氏には、文革における毛沢東と同じように、不思議な魅力があった。安倍氏が嘲弄冷笑する人間なら、いくらでも攻撃して構わない、その行為は愛国的である、と解釈するのを許し、論敵を寄ってたかって嘲弄冷笑する現象があちこちで起きた。

人間にとって、嘲弄冷笑は、批判されるよりも怒りや恨みを買うことになる。やられた人は、毛沢東が紅衛兵をそそのかしたのと同じように、安倍氏がそそのかした、あるいは暴威を振るうのを見て見ぬフリをした、と恨んだ。安倍氏が憎まれるのは、日本版紅衛兵による恨みがあるように思う。

他方、安倍氏と意見が似ている人には紅衛兵の被害はほぼ皆無。だから、嘲弄冷笑の嵐を受けた人間がどれだけ腹を立て、恨みに思っているかがわからない。それはあたかも、いじめの対象になったことのない子どもが、いじめられた同級生の屈辱、恨みにいま一つ鈍感なのに似ているかも。

なぜ安倍氏以前の為政者は、論敵を嘲弄冷笑するという、安倍氏の行ったイノベーションをやらなかったのだろう?それは恐らく、リーダーが行う嘲弄冷笑は尋常ではない恨みを買い、時に殺意を生む原因となりかねない、という歴史を知っていたからだろう。

学校という狭い世界でも、クラスの人気者が特定の人間を嘲弄冷笑すれば、それはクラス全体に伝染し、「コイツは嘲弄冷笑しても構わないんだ」という空気が支配的となり、対象となった子どもは激烈な孤独感と、激しい憎悪を抱くことになる。

一人一人のクラスメートからすれば、からかったのは一度か二度だけ。まさかその程度で深く傷つくとは思わない。しかしクラス全体からそのような扱いを受け、ろくにかばう人も出ないなら、その子は激しい怒りと恨みを抱くことになる。

では安倍氏はなぜ、嘲弄冷笑は論敵を迫害するよりも効果的に相手の力を奪うことができるというイノベーションが可能だったのだろう?それは恐らく、日本が平和だったからだろう。どれだけ恨みを抱いても、どれだけ怒りを募らせても、暴力を振るうほうが悪いという平和な国のルール。

このルールが生きている国でリーダーが嘲弄冷笑をする場合、最強となる。
クラスの人気者が特定の子どもを嘲弄冷笑し、もし恨みに思った子どもがたまりかねて暴力を振るったとしたら、暴力を振るった子供が罰せられることになるのと同じように。

たたし、「平和な空間では、暴力を振るった者が問答無用に罰せられる」というルールが問題なく機能するためには、暗黙のうちに守られてきた、ある前提が必要だ。「人の心を傷つけるような嘲弄冷笑をしてはいけない」という前提。

人の心をむやみに傷つけ、嘲弄冷笑することを繰り返せば、恨みを抱くのは、もはや自然現象。いくら「暴力はいけない」というルールがあっても、恨みの水位が防波堤を超えたとき、防波堤を超えるなと言っても超えてしまう。

「アーロン収容所」にあるエピソード。日本人捕虜が川の中州に閉じ込められた。「カニを食べると赤痢になるから喰うな」と言われて。しかし食料をろくに与えられず、飢えた捕虜は我慢できず、カニを食べ、赤痢で死んだ。英軍は「喰うなと教えたのに食べた愚か者」と本国に報告した。

カニを食べた日本人捕虜は愚か者だろうか?そんなことはない。食べ物もなく、逃げ道もない環境で飢えさせられれば、食べずにいられない。それが自然な心の動き。そんな自然な心の動きで自滅するように持っていった狡猾さの方が責められるべきだろう。

嘲弄冷笑は、人の恨みを買う。恨みは暴力を生みやすい。だから、歴代の為政者は政敵であろうと嘲弄冷笑を控えた。暴力を自然発生させかねない、恨みの蓄積を防止するためだ。しかしこうした配慮は、明文化されていない。嘲弄冷笑をしないのは、暗黙の前提でしかなかったからだ。

しかし、暗黙の前提とはいえ、それをみんなが守ってきた。それを安倍氏は破るというイノベーションを起こした。実に有効に政敵の政治的魅力や説得力を奪い、支配的な政治力を発揮することに成功した。その点で、安倍氏はトランプ氏の教師だと言える。

しかし安倍氏のこうした特質は、安倍氏と意見の一致をみている人にはピンとこない。自分はされたことがないし、場合によっては「そんなこと言うからそんな目に遭うのだ」と考えるし、少し行き過ぎた批判でしかないと感じるだけだからだろう。

もし安倍氏が、嘲弄冷笑的な態度や姿勢を見せず、真摯に耳を傾けるポーズでも見せていたら。一緒になって嘲弄冷笑する輩をたしなめ、「人を嘲弄冷笑するものではない」と心から叱咤する人であったなら。政敵でも違った受け取り方になっただろう。

安倍氏の生んだ政治手法は、かなりの年数、日本に馴染んでおり、簡単には改められないだろう。また、嘲弄冷笑で蓄積した恨みも、そうやすやすとは解消しないだろう。安倍氏が襲撃殺害されたことで、さらに感情が複雑化している人が多いように感じる。

私は、安倍氏を心から弔うことができる環境を整え、これまでに蓄積したひずみを少しでも解消する方向に進んだほうがよいと考えている。そう考えると、大した議論もなく国葬にすると決めたことは、恨みという感情を固定化しないか、という点を懸念する。

国を統べる人間は、国民の感情というものをよく考慮して物事を決めて頂きたいと思う。暗い感情が蓄積することのないようにするのも為政者の仕事だろう。人間は理性の生き物ではない。感情を持った生き物なのだから。

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