「言語化」考・・・「バカの壁」を決壊させるために

「言語化」考。
私は非常に物分りの悪い子どもだった。他方、父は才気煥発、瞬時に事態を理解し、適確な答えを出す人だった。ただし非常に短気。説明するのも面倒くさい。「こうしとけ」という短い指示があまりにもあいまい。言葉通りにしたつもりでも「こうやれと言っただろうが!」とカミナリ。理不尽。

中学生になり、反抗期の私。父の指示は相変わらず言葉が足りなくて何をしろと言ったのか、逆にするなと言ったのか、言葉だけだとハッキリしない。反抗期の私は言葉通りにするのを無視し、状況を観察して、今やるべきことは何かを考えた。すると「お、ちゃんとできたな」と言われるように。

それからは、父の言葉をマトモに聞かない方がうまくいく、と考えるように。父の言葉は、今、どの問題に着眼点を置くかのヒントに過ぎないと考え、ああしろこうしろという指示としては無視する。そして自分の目で観察してこうした方がよい、と判断して行動したほうが、父のお眼鏡にかなうという皮肉。

父のもとには子育ての相談に来る親子が多かった。私を鍛えようとしてか、私を同席させることが多かった。父は相談内容を聞くとたちまちどうしたら解決に導けるかを話すのだけど、これまた言葉がたくさん抜け落ちていて、相談しに来た親子はぽかーん、と。何をアドバイスされたのかピンと来ていなかった。

私は、その親子の語った相談内容を吟味し、父が口にしたキーワードを手がかりに、何をアドバイスしようとしたのかを見当つけ、「父の話は分かりにくかったと思うので、私が解説を試みます」と言って、相談しに来た親子が理解できる言葉を紡いで説明した。ほぼ私の解説通りだと父は満足していた。

私が「言語化」を意識して行うようになったのは、父の言葉があまりに曖昧すぎてはっきり分からないのを、もう一度自分の言葉で紡ぎ直して理解し直す、という作業を繰り返したからかもしれない。また、父からのアドバイスが何なのか理解できなければ役に立たない。その「翻訳」がクセになったのかも。

言語化という作業の重要性に気づいたのが、阪神淡路大震災。震災初期、空疎な言葉が飛び交っていた。「復興の槌音」という言葉に相応しいエピソードを東京のスタジオは集めようとしていた。現場の記者がそれどころではないと訴えても「復興はスタートしてるということですね」という言葉で押しかぶせた。

当時神戸市で配られていたお弁当はおにぎり2個、菓子パン一個、牛乳パック一つ。それが1日分。報道では700円以上のお弁当が配られているとだけ。金額だけ聞けばかなり立派なお弁当を配給されているように全国の人は感じていた。テレビ局の人もてっきり豪勢な弁当を食べていると勘違いしていた。

神戸市は「救援物資で溢れかえってるから物資を送らないでくれ」とアナウンス。これがアダになった。貧弱な弁当を補っていたのが、救援物資の食料。なのにピタリと食料が救援物資から消えた。このままでは被災地に飢餓が発生しかねなかった。流通はマヒしたままで、店もろくに機能してなかった。

しかもその貧弱な弁当の配給さえストップするという話まで。救援物資の食料はなくなる、貧弱とはいえ弁当の配給までなくなって、しかも流通小売は機能不全のまま。飢餓が発生する!私達ボランティアは慌てた。そこで、現場で起きてることをいかに効果的に伝えるかを皆で考えた。

それまでの報道は、被災地が順調に復興に向けて進捗してるという報道ばかり。芸能人がステーキ100枚振る舞ったという報道とかで、被災者は贅沢なものを食べてるというイメージが先行していた。テレビ局の人自体がそんな認識で、ろくに現場を取材せず、神戸市の出す数字を垂れ流しにしてるだけ。

そこで私達は、お弁当と言ってもひどく貧弱なものしか配られていない実態を伝え、その弁当さえ配給が止まろうとし、救援物資から食料が失われ、「食料不足が起きようとしている」という一点を伝えよう、と決めた。ボランティアで手分けしてテレビ局や新聞の記者を捕まえ、現実を伝えた。

記者は全員驚いていた。被災地にいるのに、被災者が毎日何を食べているかを把握していなかった。700円以上のお弁当を食べている、という数字だけ把握して、勝手に「豪勢な弁当を食べている」と勘違いしていた。貧弱な弁当の現物を見て絶句。「必ず東京のスタジオに伝えます」と約束してくれた。

各局が一斉に、被災者がろくな食事もとれていないこと、救援物資が溢れかえってると言ってもそれは毛布や服の話であり、食料や生理用品などが枯渇しているという実態を伝えてくれた。そうした物資が被災地に集まるようになり、日々、必要な物資は何か、記者も取材を心がけるように変わった。

この阪神淡路大震災での経験は、後日「バカの壁」と呼ばれることになる理解の壁が、報道人にも起きるということを教えてくれた。自分の聞きたいことしか耳に入らない。現場が「それどころじゃない」と訴えても「全体から見ればささいなこと」として無視された。

分厚い「バカの壁」を破るにはどうしたらよいか?
ダムを決壊させるにはアリの一穴でよいと言われる。とはいえ、ダムの壁の上の方で穴を開けてもびくともしない。ダムを崩落させるには、なるべく基礎の部分に穴を開ける必要がある。そんな言葉を紡げるかどうか。阪神淡路大震災はそれを教えてくれた。

貧弱な弁当の実物を見せること、「これが700円以上すると思いますか?」と、値段とのギャップを強調する。その意外性に気がつけば、「現場はどうなっているんだ?」という関心が俄然強くなる。実際、その後は現場の実態を把握しようとする記者が増えた。

人間、誰しも「バカの壁」がある。子供の頃から物分りの悪い私は、人一倍「バカの壁」が分厚かったとも言える。今も物分りが悪い。人の言葉そのままだと理解できない。いつも自分の言葉に翻訳し直してからでないと理解できた感覚がない。人の言葉は全然しみとおらない。

先日来ツイートしている食品ロスについても、「食品ロスはゼロにした方がいい」という思い込みがあると、ゼロにしてはいけないという理屈がなかなか入ってこない。この思い込みを打破するにはどんな言葉を紡げばいいか?ずっと考え、「安全余裕」という工学での話を持ってきたら、理解してもらえた。

規格外の野菜を食べたほうがフードロスを減らせる、という思い込みも強固なもの。その「誤解」を解くにはどうしたらよいか?曲がったキュウリを箱詰めするとガサゴソ動いて傷だらけになる、という現場の農家の方から聞いた話を紹介して、理解してもらいやすくする言葉を見つけた。

言語化とは、すでに多くの人から解説が試みられていながら、いまひとつ誤解を解くことができない、すでに定着した思い込みが強固すぎて、説明が入っていかない、そうした「バカの壁」をぶち破る、「アリの一穴」のことなのかもしれない。

私は生来の物分りの悪さのおかげで、「その程度の言葉では自分のバカの壁はぶち破れない」ということがわかる。自分にもわかりやすい、納得しやすい言葉を探すと、多くの人にも納得してもらいやすい言葉を紡げるようになったように思う。物分りの悪さが功を奏した感じ。

私は、言語化がうまくできていないために多くの人に誤解されている事象を見つけては、「これを多くの人に理解してもらうきっかけとなる言葉を紡ぐには?」と考えるクセがついた。それは同時に、私自身に理解させる行為でもある。

それがたまたま、ツイッターと相性が良かったということなのだろう。私の物分りの悪さが、言語化という裏返しの長所となり、ツイッターでそれが目立つようになった、ということらしい。
全く何が幸いするか分からない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?