人と共に楽しむ世界へ自分の心を持っていく
私は「期待される」ことが嫌いだ、と再自覚。
農業研究者としてあなたを高く評価してる、しかし他の農業研究者はだらしない、あなたがハッパかけて改革することを期待する、なんてことを言ってくる人がいた。
正直、何を言ってるんだこの人は?と思った。自分が何を感じたのか、腑分けしてみる。
まず、
・「高く評価する」とほめることでご褒美上げた感覚をお持ちの様子。でもほめるというのは上から目線の姿勢のもの。あんた何様やねん?と感じた。
・他の農業研究者を悪しざまに言う。私が仕事仲間を悪く言われて不愉快に思う可能性を考えないその不躾さがまた「何様やねん?」
・農業研究者たちの尻を叩き、改革せよ、と言うけど、「なんであんたの指示に従わなあかんねん?」という不愉快さを相手に感じさせる可能性を考慮しない高慢さにイラッとする。
・自分を農業研究者よりも上に配置するその傲慢さが鼻につく。
これらの理由から、私は不愉快さを感じたらしい。
この手の偉そうな「お説教」をする人は、一定以上の年齢の世代に目立つ。不思議と、私が心から敬愛する、尊敬すべき人たちの場合、そうした世代であってもこうした傲然とした発言をする人は一人もいない。一体この人たちには、何が欠落しているのだろう?
私が感じるのは、言葉の端々に「俺のほうが上だ」ということを相手に承認させようという欲求があること。私を実力者と認めているように見えて、それは「あなたという実力者と私は同じ側にいますよ、さあ一緒にアイツラを下に見下げてやりましょう」とそそのかすための言動でしかない、と感じる。
つまり、私をほめるのも、その人が私を踏み台にして、多くの農業研究者を睥睨(へいげい、下に見、にらみつけること)するために行っていること。それを瞬時に感じるから、それらの発言を不愉快に感じるのだろう。
私を利用しているだけ。つまり、ほめてるようで、自分がはい上がるために、私を道具として利用しているだけのこと。その構図が感じられるから、私は「何様やねんこの人は?」と思うのだろう。
私は、尊敬すべき農業研究者をたくさん知っている。私にはない技能、知識をたくさんお持ちの方がウジャウジャ。恐らく全ての農業研究者は、私にない能力を必ずお持ち。何か一つ私に優れたところがあったとしても、それを理由に偉そうにできると考えるのは、チャンチャラおかしい話。
講演会に行くと、「講演してるあなたは偉い、しかしあなた以外の同業はだらしない、あなたがハッパをかけて改革してくれることを期待する」という発言は、テンプレなのかと思うほど、少なくない確率で出てくる発言。私はこういう、人を使って物事を動かそうとする他人任せな姿勢が好きではない。
私は基本、誰もが自分よりも何かしら優れた面を持つ、と考えている。誰かだけを高く評価し、他をくさすという世界観を私はとらない。むしろ、そうした価値観こそ、この世界を差別で塗りつぶし、一部の人だけが満足し、多くの人たちから喜びを奪う元凶のように考えている。
だからなのだろう。一部の人間だけをほめて、他の人達をくさす発言を私が嫌うのは。私は、一部の人間だけが笑う(嗤う)世界を好まない。できるだけ多くの人たちが楽しく笑顔でいる社会であってほしい。誰かがつらい思いをしているなら、それを軽減しようと努める社会であってほしい。
誰もが笑顔でいられる社会。それは、一人ひとりの特徴に驚き、面白がる社会でもあるように思う。誰もが何かしら面白い特徴を備えると考え、その長所を引き出し、「あんた、オモロイやっちゃな」と楽しみ合える社会であってほしい。
そういう社会は、自分と一部の人間だけを高みに置き、それ以外を見下し、睥睨する価値観では作り得ない。そうした根本的な価値観の違いから、私は、私だけをほめて他を罵る発言に、嬉しいどころか拒否感を感じてしまうのだろう。
人のダメなところをあげつらうのではなく、各人の面白いところを発見し、それを伸ばすという関係性がもっともっと広がってほしい。一部だけほめて「他はケシカラン」と怒るステレオタイプな姿勢は、世の中を楽しくする方向には役に立たないように思う。だから私は瞬時にその発言を拒否したのだろう。
なぜこんなに分析するのかというと、私もそうなるリスクがあるから。男性の少なからずが、年をとると悲憤慷慨(世の中を憂い、嘆くこと)型の、聞き分けのない老人になる。人の長所を引き出すのではなく、ダメな所をあげつらっては、嘆く自分を高みに置くようになる。
これだけ多くの男性がそこに陥るということは、少なからずの男性がそうなりやすい性向があるということ。そして私の中にもその性向があることを認めざるを得ない。もし私が孤独に陥ったら、悲憤慷慨することで自分の孤独を正当化し、「自分は正義の味方だから悪の連中から阻害され、孤立するのだ」と、
小理屈こねて自分を慰めることになるだろう、という予感がある。そこに落ち込まないようにするにはどうしたらよいか。自分のために環境を整えておく必要を感じる。人間は、周囲との関係性や環境でいかようにも変容する生き物だと思うから。
自分で自分を望ましい形に整えるには、自分に優しくする必要がある。自分をか弱き生き物と捉え、ちょっとした関係性の変化で傷つき、心がかき乱される人間でしかない、と捉え、そんなか弱き生き物でも、好ましい行動をとることがいちばん素直な反応になるような、環境を整える。
私は自分の意志の強さを信じない。関係性や環境が変わればあっさり崩れる弱い意志しか備えない、か弱き人間。そんなか弱き生き物が、好ましい言動をとるような環境とはどんなものか。その環境を整えるにはどんな工夫が必要か。それを無理なく実行できるさらなる工夫とは何か。
自分を強いものと考えず、徹底して弱く、だらしなく、怠惰な生き物だと捉える。そんな生き物でも、好ましい言動をとるようになる環境はどうやって整えればよいのか。そこに全集中する。徹底して自分に優しくする。自然に自分の心がそちらに赴くように。
水に「丸くなれ、四角くなれ」と命令し、殴りつけたり蹴ったりしても、決して丸くも四角くもならない。水は飛び散るだけに終わるだろう。心も水と同じ。「強い意志」で命令しても、水ものの心は命じた通りには動かない。
けれど。
丸い器、四角い器を用意したらどうなるか。水はその器の形に丸くなり、四角くなるだろう。自発的に。能動的に。水は低きに流れようとする。その性質を活かして、水を自在に操ることは可能。
では、心は?
「楽しきに流れる」もののように思う。だから私は、好ましい方向が楽しいもので満ち溢れるようにデザインする。すると私の心は、放っておいてもそちらに向かおうとする。だから私の「意志」は、私の心に命じることではなく、心の赴く道筋の整備に努めるようにしている。
自分(と一部の人間)だけを高みに置くという、好ましくない方向を避け、できるだけ多くの人たちが笑顔で楽しく生きられる世界を目指す心のありように自分の心を持って行くにはどうしたらよいか?を常に考えている。そちらが楽しくて仕方がない、そんなデザインになるよう、今後も工夫を重ねたい。
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