見栄を捨てなきゃ言語化は難しい
言語化する上で、恐らく大切なこと。
「かっこいいこと言ってやろう」
「美しい言葉を紡いでやろう」
「ため息つくような感動的な言葉を発してやろう」
というのを、全部諦めること。ひたすら泥臭く、心にストンと落ち込む、自分の身体にピタッとくる言葉を探すこと。見つかるまで泥臭く。
かっこいい言葉、美しい言葉、感動的な言葉を吐こうとすると、それは「言語化」にならない。ただカッコ良さそうな言葉を借りてくるだけとなる。
「ひそみにならう」という言葉が。昔、絶世の美女が眉をひそめて悩む様子に惚れた王様の話を聞いて、多くの女性が眉をしかめるようになった、という話。
かっこいい言葉、美しい言葉、感動的な言葉を吐こうとすると、しばしばこの「ひそみにならう」になってしまう。借り物の言葉を吐くことになる。でも不思議なもので、それを聞いた他人はすぐわかるらしい。「あ、借り物の言葉だな」と。
借り物の言葉は、表現すべき「何か」と、どうもぴったりしていない。サイズも合わない、体形も合わない燕尾服を着させられたような。燕尾服は立派で生地も素晴らしいものかもしれないけれど、似合わないから滑稽にしか見えない、そんな具合と似ているかもしれない。
言語化は、もっと泥臭い感じだと思う。表現したい「何か」の輪郭の一部を示すのに、ピタッとする言葉を探しまくる。輪郭に当てはめては「うーん、ピタッと来ないなあ」と思ったら、次の言葉。変にかっこいい言葉から選ぼうとせず、日常使う言葉から探したほうが、ピタッと来る言葉は見つかりやすい。
私は基本、どんな言葉を使っても、表現したい「何か」をうまく言い表すことはできない、と考えている。できることは輪郭をなぞり、形をなんとなく浮かび上がらせることができるだけ。言葉はもともと、そうした限界がある。
「鉄」を表現しよう、理解しようとしたとき、「電気を通す」「磁石にくっつく」「夏の日差しで火傷しそうなほど熱くなる」「包丁やトンカチの原料になる」「さびやすい」など、鉄にまつわることを列挙する。すると、鉄とは何か、という輪郭がだんだんと明確になっていく。でも面白いことに。
鉄そのものは決して表現することができない。電気とか磁石とか、鉄以外の何かとの関係性を表現するしかない。実は、私たちは鉄そのものを理解できるわけではなく、鉄以外との関係性でなんとなく輪郭を浮かび上がらせ、そこに位置する「何か」に「鉄」という呼び名を与えているに過ぎない。
私たちは鉄そのものに決して迫れない。鉄以外のものとの関係性で周辺をめぐることはできても、鉄そのものを理解することも、言葉にすることもできない。鉄以外との関係性の結節点に、「鉄」という名称を与えているだけ。それが私たちの理解と言葉の限界。
「概念」とはよく言ったもの。私たちは、「だいたい(概(おおむ)ね)の、なんかフワフワしたイメージ(念)」をつかむことしかできないのだよ、ということを言い表した言葉。そう。私たちは、輪郭をなぞることはできても、それ以上の理解に到達することはできない。
私たち人間はその程度のものだとしたら、あんまりカッコつけなくてよいように思う。表現したい何かにピタッとくる言葉があるなら、その言葉がその「何か」の輪郭の形にうまく沿うものなら、その言葉を使えばよいのだと思う。
でも、かっこいい言葉、美しい言葉、感動的な言葉を使おうとすると、「場違い感」がすごい。会議なんかで場にそぐわない発言すると「座の空気が凍る」と表現されることがあるけれど、それに似ている。今そこでそれ言う?違和感がものすごくある。結果、カッコ悪い。美しくない。感動もしない。
でも、泥臭く、でもなんとか表現したい「何か」の輪郭にピタッときた感じがあると、その泥臭さが美しさに変わる。ブルーハーツ「リンダリンダ」で出てくる、「ドブネズミみたいに美しくなりたい」というフレーズのように。これまでの固定観念を覆すかっこよさ、美しさ、感動が生まれる。
難しそうな言葉、かっこよさそうな言葉、美しいと感じるフレーズ、感動的な言葉、に引き込まれる気持ちは分かる。でも、「場にそぐわない感」があると、意図したのとは逆に違和感がすごく出る。言語化する際は、見栄を捨てたほうがよい。良く見せようとしないほうがよい。
身体から出てくる言葉。表現したい「何か」の輪郭にピタッとする言葉。それを探す。見栄を捨てて。それが言語化する際のコツなのかもしれない。
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