トンビがタカを生む方法

教える側は教わる側より常に優れていなければならない、という思い込みは結構強いように思う。知識がなければ教えられないし、正しく導けない、と。
しかしその考え方だと「劣化コピー」しか生み出せないことになる。すべてを教えることは不可能だし、勘違いも起こりうるから。

私の父は実に子どもあしらいがうまく、鈍才の私がなんとかなったのも、父の指導ゆえだと思う。しかし私は勘が鈍いし、理解力に乏しいし、子どものあしらいがうまいとは言えない。私が父の劣化コピーだとしたら、私の子どもも私の劣化コピーにしかならないことになる。これは長年の悩みだった。

どうにか「トンビがタカを生む」とか、「青は藍より出て藍より青し(出藍)」と言われる、指導者よりも優れた後進を育てる「技術」はないものだろうか?自分なんかより、はるかに超えて優秀な人間に育ってくれる指導法とは?
いろんな教育書を読み漁っても、答えは見つからなかった。

最初のきっかけになったのはレイチェル・カーソン「センス・オブ・ワンダー」。カーソンはここで驚きの発言をしている。自然や生命の不思議や神秘に目を瞠り、驚く感性(センス・オブ・ワンダー)を育むことと比べたら、物の名前を覚えることはさして重要ではない、と。

実際、この本でカーソンは、甥のロジャーと夜の海の岸壁に立ったり、雨に濡れる森の中を探検したり、夜空の月を眺めたり。自然の不思議、神秘に驚き、それを楽しんでいるが、ロジャーに生物などの名前を教えようとしない。二人にだけわかるあだ名(リスさんのクリスマスツリー)で呼ぶくらい。

私はこの本を読んで、「そうか、教えることは重要ではない、この世界がいかに面白いか、それを探究することがいかに楽しいか、そのことさえ子どもが感じ取れば、あとは子どもが勝手に学んでいくんだ」と気がついた。
子どもが学ぶことを面白いと思うこと、学ぶことを楽しむこと。それが大切。

しかし、具体的に子どもたちにどう接していけばよいのだろう?指導とは「教える」ということだという思い込みはとても強いものがある。他の方法はないものか?
そんなとき、コーチングを学んだ。5W1Hと言われる、問いかけることで相手の思考を刺激し、相手の思考を促す方法。

これはソクラテスの「産婆術」にそっくり。「メノン」という本では、ソクラテスが、数学の素養がない召使いに問いを続けることで、召使いがついに新たな図形の定理を見つけてしまうという場面が紹介されている。ソクラテスも知らなかった図形の定理が、問いによって生み出されてしまう。

そうか、じゃあ、指導する側は知識がなくてもいいんだ、教えなくてもいいんだ。ひたすら問いかけ、相手の思考を促し、答えに驚いては、「それを言われて思い出したんだけど」と、新たな情報も加えた上でさらに問いかける。すると、自分も相手も知らない境地にたどり着いてしまう。それが産婆術。

指導する側は、適切な問いかけ方をマスターし、相手の答えに驚き、面白がる。そして、その答えで連想したこと、思いついたことを追加してさらに問いかける。すると、指導する側にもされる側にもなかった着想が生まれる。そうした「産婆術」こそが、「トンビがタカを生む」、出藍の技術なのだ、と。

で、私はその仮説のもとに学生やスタッフを指導し、自分の子どもも育てている。どうやらこの仮説でうまくいくらしい。失敗することがない。相手はますます探究心が強くなり、勝手に学ぶようになる。自発的に。自発的に工夫を重ね、発見し、挑戦を続けるから、どんどん成長する。指導する側を超えて。

私は、こうした指導法がもっと広まればよいのに、と思う。これまでは、こうした指導法が誰にでもわかるよう、うまく言語化されていたとは言い難い。私がそれに成功しているかは分からないが、なるべく噛み砕いて伝えていきたい。優れた指導者は、こうした指導法をすでにやってきているのだから。

「それでも教える側に知識は必要なのではないか」というご指摘があったので、私の意見を述べると、要らない、くらいに思い切って考えた方がよいように思う。もっと必要なことがある。観察(昨日までなかったけど今日は見える「差分」を探す)すること。

ナイチンゲールに次の言葉がある。
「経験をもたらすのは観察だけなのである。観察をしない女性が、50年あるいは60年病人のそばで過ごしたとしても、決して賢い人間にはならないであろう。」
この言葉からもうかがえるように、ただ「見る」だけでは観察したことにならない。

観察とは、自分の知らなかったこと、気づかなかったことを探すこと。指導者は何より、これが大切だと思う。ただ漫然と見るだけでは、昨日と今日の差分は見えてこない。常に自分の気づかなかったところ、見えていなかったところを探すから、差分に気がつくことができる。

そして「昨日とここが違うようだけど、何か工夫してるの?」と訊いてみる。すると、よくぞ聞いてくれましたと喜ぶ場合もあれば、あれ?そうだっけ?と、本人も初めて意識化できるかもしれない。そこから本人の工夫・発見・挑戦を開始できる。

指導者は、自ら子どもの様子を仔細に観察し、自分の気づかなかったところを探しまくる。すると自然に、子どももよく観察するようになる。観察すれば自然と仮説が思い浮かぶようになり、次なる工夫も思いつく。新たな発見も可能。次なる挑戦にも意欲が燃える。

教えるより、教える側が自分の知識や技術を気にする以上に、相手をよく観察し、気づかなかったことを探そうとし、それを共有する。そこから生まれる仮説にもとついて工夫し、発見し、挑戦する意欲に驚いてみせる。これが指導者に求められるもののように思う。

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