理論から入ると観察眼が曇る(順番大切)

すいえんさーガールと東大生・京大生とが対決した話がバズった中で、何人かの方がPDCAに言及していた。
私の考えでは、PDCAを(知らず知らずに)採用してしまったのは東大生や京大生の方だと思う。
https://note.com/shinshinohara/n/n03127e0f835c
PDCAは、決まった作業を行う工場などでは有効だけど、未知の問題を扱う研究や開発には非常に不向きなものだと考えている。最初にP(プラン、計画)が来てしまっているから。
他方、私の推奨する科学の五段階法は、観察・推論・仮説・実験・考察の順で、観察が最初。
この順番が大切。
なぜP(プラン、計画)が最初だといけないのか。最初に予断、予見を持ってしまうと、観察眼が曇ってしまい、予断や予見を補強するような事実しか見えなくなってしまうから。
私たちは重そうな荷物だ、と予断を持つと、無意識に身構える。思ったより軽いとすっぽ抜けることも。
甘そうなお菓子だと思って口にしてから塩味に気づくと、一瞬、パニックに陥ってマズいと思ってしまう。よく味わえばおいしいのに、予断、予見を持つと、私たちは感覚でさえ、その予断、予見にすり寄った感覚を無意識に準備してしまう。
私たちは最初にプランだとか計画だとか理論だとかを思い浮かべると、無意識のうちにそれら「予断」を補強するようなものを発見しやすくなる。他方、予断から外れた情報、感覚はノイズ扱いされ、見えなくなる。私たちの思考はあいにく、そのようにできてしまっているらしい。
老荘思想の大家、福永光司さんは少年の頃、母親から「あの木をまっすぐ見るには?」と謎をかけられた。その木は、どこからどう眺めても曲がっていた。まっすぐになんか見えるはずがない。切ったあと、まっすぐに整形しろ、という話でもなさそうだし。
福永少年は降参した。
母親からの答えは意外なものだった。
「そのまま眺めればいい」
このエピソードに関する私の解釈は、次のようになる。
私たちは「まっすぐ」という言葉を聞いたとたん、まっすぐか曲がっているか、という規準を胸に抱いてしまう。すると、すべてはまっすぐか曲がっているかしか、見えなくなる。
しかし価値基準を脇に置き、虚心坦懐に木を眺めたとしたら。木肌から良い香りがするのに気がつく。木漏れ日が心地よく感じられる。葉ずれの音が風を教えてくれる。樹液を吸いに虫が集まってることや、大地に伸ばした根の力強さにも気がつく。五感から情報が飛び込んでくる。
母親の「真っ直ぐ見るには?」という謎かけは、予断を持たず、虚心坦懐に「素直に眺める」こと、そうでなければ予断にねじ曲げられて、見れども見えず、聞けども聞こえずという、五感からの情報シャットアウトになってしまうよ、ということを伝えたかったのだと思う。
私の意見を「理論を軽視しすぎ」と勘違いしている人がいたようだけど、理論は大切。決して軽視しちゃいけない。ただし、私たちは予断を持ったとたん観察眼が曇る生き物だということを頭に入れると、観察の段階では理論を忘れ、予断を持たないようにすることが大切。
ただし私たちは、あまりに初めてのことに直面すると、何をどこから見たらよいのかさえ見当がつかず、やはり見れども見えず、ということが起こり得る。そのため、過去の理論から「目のつけどころ」を教えてもらうのはアリ。ただし、理論が教えないことにも気がつけるよう、理論はまた忘れること。
観察の際には、観察を曇らせ勝ちな理論など、予断になりそうなものをいったん忘れて、五感で観察すること。五感の情報から無意識が紡ぎ出す仮説と過去の理論を突き合わせ、さらに詳しく事物や現象を観察する。そうしてより深く事物や現象を理解する。
観察時には、目のつけどころを教えてもらう以外では、理論を持ち出さない。予断を持たないようにする。それは理論の軽視ではない。
シチューを作るのに野菜を切るのと煮るのの順番を間違えないように、ということ。順番はとても大切。

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