かけ算の順番について
小学校の教員の方から「かけ算の順番についてどう思うか」という質問を受けた。
たとえば「バナナが3本ずつ入った箱が4箱あります。バナナは合計何本あるでしょう?」という問題があった場合、3×4だろうが4×3だろうが答えは12本だけど、「3×4の順でないと間違い!」と考える派閥があるらしい。
この件に関して私は、「教える側は意識する必要があるが生徒に押し付ける必要はない」と考えている。
まだかけ算を習い始めたばかりの子は、3×4と4×3が実は同じ答え(12)になることに気づいていない子がいる。順番が違えば答えも違うかもしれない、と考えている子がいる。
そういう未熟な子に、「かけ算の順番はどちらになっても答えは同じだから気にしなくていいよ」と先走って教えてしまうと、子どもは混乱する。まだ習ったばかりの子は、その話が本当なのかどうかを検証するだけのデータを持っていない。だからその教えを受けとめきれない。
息子は小学校に入るまでに計算で遊んでいた。3×4は「3が4つある」という意味であり、4×3は「4が3つある」という意味である、と知った息子は、ひたすら3つの点を4列並べて「いち、にい、さん」と数えたり、4つの点を3列並べて「いち、にい、さん」と数えて答えを導いていた。
そうした問題をひたすら大量に解いていた息子はある日、重大な発見をした。「3×4も4×3も答えは同じ12。どうやらかけ算は、順番が逆になっても答えが同じになるらしい」という「法則」を自ら発見し、私に教えてくれた。私は自力でその法則を発見したことに驚いた。「よくぞ自力で気がついた!」
しかし息子がそれを発見できたのは、膨大な問題を解き、その間に地道に数える作業を繰り返す中で、かけ算は順番が逆になっても同じ答えになるという「体験」を莫大に積み上げたからに他ならない。こうした体験データがない子どもに、この「法則」に納得せよと言っても、それは無理がある。
体験データの積みあがっていない子に、あれこれ先回りしてテクや法則を教えると、かえって混乱する。それよりは、地道に体験を積み重ね、子どもの中にデータが蓄積するのを待つのが肝要。そのためには、「かけ算は順番がひっくり返っても構わない」は、教えないほうがよい。混乱を避けるためにも。
「バナナが3本ずつ入った箱が4箱あります」という問題なら、指導者は、出てきた数字の順番に「3×4」と書いて解く様子を見せたらよいように思う。ここでうっかり「4×3」って書くと、子どもから「先生、順番逆だけど大丈夫?」と疑問を持たれてしまう。そうなってしまうと。
「実はかけ算は逆になっても同じ答えになるから、気にしなくていいんだよ」と言い訳しなければならなくなる。こんなビックリな情報を、まだ十分に体験データが積みあがっていない子に伝えたら、それを裏付ける体験がないだけに、受けとめきれない。ええ??と、大混乱してしまう。
だから、教える側としては、問題文で登場した順番に数字を並べてかけ算して見せる、というのはとても大切だと思う。子どもが妙なところで混乱したり、指導者側が、もっと先の方で教えるべきことを先走って口にしなければならなくなるような事態を避けるために、ここはとても重要。
でも、だからといって、子どもが「4×3」と逆の順番で計算していても、それを間違いだとしてペケにするのは、明らかにやり過ぎだし、かえって混乱のもとを生むと思う。その子は3本入りの4箱のイラストを描いた後で、4×3と計算したのかもしれない。それはそれで合ってる。間違っていない。
指導する側が注意しておけばよい話を、生徒に強制するのは間違っていると思う。混乱させてどないすんねん!と思うから。重要なことは、生徒が混乱せずに、段階を踏んで理解すること。指導者だけが意識しておけばよいことを、生徒にまで強制して混乱させるのは、意味がない。
なんか、かけ算の前の方と後ろの方で役割を定義して、だから順番で計算すべきだ、という妙な定義があるらしいけど、私はさすがにそれはナンセンスだと思う。そんな定義を子どもに伝えようとしたらそれこそ混乱する。せいぜい、問題文で出てきた順番でかけ算してみせる、で十分。
十分に計算の体験を積み上げてきて、子どもたちの中にデータが蓄積したとみたら、指導者は少しカマをかけて見たらよいと思う。「3×4と、4×3は順番が違うけど、答えはどうなるだろうか?答えがすぐわかる子もいるだろうけど、みんなが答えを思いつくまでちょっと待っていてね」などと言って。
みんなが数え終わったら(あえて「計算」とは呼ばない)、「答えは違うと思う人、手を挙げて」と言ってみる。「じゃあ、答えは同じと思う人!」と言えば、みんな手を挙げるだろう。「ええ?本当かな?じゃあ、2×6と6×2は?」と、いくつかの問題を出して問いかける。
みんなが数え終わったら、また問いかける。このように、問題を出しては問いかける、ということを繰り返すと、こどもはそれらの体験から、自然とある「法則」に気がつくだろう。その法則を、子どもに答えてもらうとよいように思う。
それから九九の表を眺めてもらったら、多くの子が「あ!4×3も3×4も同じ12にになっている!」と気づくだろう。対角線を境に、対照に数字が並んでいることにも気がつくだろう。
子どもの学習を指導する際に重要なのは、
①理解のよすがとなる体験データを蓄積すること。
②その蓄積がない段階で先回りして教えないこと。
③体験データが蓄積したら、それを用いて自分自身の力で「法則」を発見させること。
だと思う。この段階を経ると、混乱せずに理解できるように思う。
かけ算順番論争は、「なぜ順番を決めて教えなければならないのか」という問いに答えるために、屁理屈が発達しているようだけれど、やはりそれは屁理屈だし、屁理屈にこだわって子どもの中の「理解」という現象をおろそかに考えるなら、本末転倒だと思う。
大切なことは、大人の側が屁理屈を発達させることではなく、子どもが素直に、混乱せずに物事を理解していくことだと思う。この重要目的を二の次にしてしまったリクツはすべて屁理屈とみなしてよいように思う。
息子が赤ちゃんの時、脇を抱えて膝の上に乗せると、足を伸ばして立とうとした。スックと。あれ?まだハイハイもうまくできていない状態だけれど、これならいきなり立てるようになっちゃうんじゃないか?とYouMeさんと話していたら、育児支援室の先生から諭された。
ハイハイを十分に重ね、腕の力がついていないと、転んだ時に手をつくことさえできず、顔面を強打することになりかねない。ケガをせずに立ち、歩けるようになるためには、十分なハイハイの蓄積が大事、と教えられて、なるほどー!となった。それからは立たせる特訓は一切やめた。
私は、かけ算を本当の意味でしっかり習得するには、「鉛筆3本ずつ4人に分けた」「ノート2冊ずつを5人に配った」というようなのを計算する際、3つの棒を4セット描いて「いち、にい、さん・・・」、四角を2つ持った5人のイラストを描いて「いち、にい、さん・・・」と、一つずつ数える体験を、さんざん重ねたほうがよいように思っている。そうした、確実ではあるけれど実に面倒くさい数え方を繰り返すからこそ、「3×4はいつも答えは12なんだ!」と気がついた時の衝撃は大きくなる。「法則」の「発見」の喜びが大きいから、いっぺんに覚えてしまう。しかも「体得」できてしまう。
計算の様々な法則を身に着けるには、実は安易に教えるよりも、面倒くさい体験をたくさん重ねていた方が、心に刻み込まれるように思う。息子は実に地道に「いち、にい、さん・・」と数えていたからこそ、九九を覚えてしまうことの威力を知って、むしゃぶりついたのだと思う。
しかし、こうした面倒くさい体験をしていない子がいきなり九九という便利な方法を教えてもらうと、ありがたみを感じない。感動がない。ふーん、で終わってしまう。だから、いまいち覚えたい!という動機が生まれない。マスターしたい、という気持ちが湧いてこないのだと思う。
総じて言うと、私は、かけ算の順番にこだわる意味はあまりないと考えている。ただ、子どもが混乱してはいけないから、例題を解いて見せる際は、「問題に登場する順番」で式を書いて計算して見せる、という点に注意する必要はあると思う。順番を重視する理由は、そのくらい。
子どもというのは、そこそこ「察する」能力がある。
面白いパントマイムを見たのだけれど、大人の一人がもう一人の大人をフラフープにくぐらせると、その大人は固まって動かなくなって見せた。フラフープを上に引き上げると、再び動き出した。これを何回か繰り返して子どもたちに見せた。
すると年かさの子は、「フラフープをくぐったら止まって見せる、という約束のゲームなんだな」と無言のうちに理解し、大人がフラフープをくぐらせると、その子はピタッと止まって見せた。フラフープを引き上げると、また動けるようになったように見せた。
「お姉ちゃんが動けなくなってしまった!」様子を見て驚いた妹は、自分がくぐらされそうになったとき、恐くなって逃げだした。
このように、大人が常にパターン通りの動きをして見せると、子どもは自然とそのパターンを学んでしまう。
かけ算の教え方も、このパントマイムくらいの感じでよいように思う。常に数字が登場する順番でかけ算の式を作って見せたら、子どもは自然と「その順番で式を作ればいいんだな」と察し、そのようにするだろう。たまにアマノジャクな子もいるが、それをあれこれ目くじら立てる必要はないと思う。
大切なことは、子どもの中に体験データを積み上げること。ある程度積みあがったら、子ども自身の力で「法則」を「発見」してもらうこと。そこではないかと思う。それ以上のリクツは、屁理屈になりかねないから、神学論争はいらないんじゃないかな、と私なんかは考える。