「自分を信じる」より「自分はだいたいこんなもん」

自分を信じるとか、believe myselfとか、よく歌でも出てくる言葉。

実は私にはよくわからない。私は「信」と名付けられたからか、信じるって何だろう?ということをずっと考えてきたのだけど、自分のことを大して信じてない。サボりだし、卑怯だし、すぐ善人ぶるし、よく忘れるし。

若い頃、「何でいつもオレはこうなんだ!バカたれ!」「あー!また!前に二度とやらないって心に誓っただろうが!」と、自分を罵ってばかりだった。
三十代に入ってしばらくして、「うん、むり」となった。自分は欠点だらけなんだ。欠点のない人間のフリなんかしたってしゃーない。

等身大の自分を素直に認めるようになってようやく、ラクになってきた。欠点がないフリをしなくなったことで、欠点のところに仮想上の長所があるかのようなムリをしなくなった。すると変な失敗がない。変に自分を否定せずに済むようになったことで、逆に自分の強みも素直に認められるように。

自分を大きく見せようとせず、自分を変に卑下することもなく、「そうか、お前はそう生き物なのか、へええ」と、自分を虚心坦懐に観察し、それを面白がるようになった。「そんなら、こっちは無理があるからやめとこう。でもこっちなら得意だし無理がないんじゃない?」と、自分にお勧めするように。

自分を信じるとか、believe myselfとかのフレーズが含まれる歌は若い歌い手のことが多い。自分を信じる、信じたい、という願望、気負いがあるのは、若者らしい。ただ時折、「信じさせて・・・!」という悲鳴にも似た心の叫びを感じることがある。私はもっと高く翔ることができるはず!と。

でもねえ、等身大の自分って、面白いよ。だらしなく風呂に浸かってるカピバラ見てる感じで、飽きない。空想の自分と比較して自分をこき下ろすのは若さの特権かもしれないけど、現実の自分を観察するのもなかなか飽きない。

自分を等身大に観察できることの妙味。自分を操るのが上手くなる。

山本周五郎「青べか物語」に、青べかと呼ばれた不格好な舟が現れる。この舟、常識的な操船術をことごとく拒否する。それでもなんとか乗りこなそうと何日も努力する主人公。その滑稽さを笑う周囲。

ついに主人公は疲れ果て、「こいつはみんなが笑うように、やっぱり青べかなんだ」と諦めた。ところがそのとたんに、青べかを自在に操り、好きなところへ移動できるようになったという。

これはとても象徴的な話だと思う。「普通の舟」のイメージを押しつけてる間、主人公は青べかが見えていなかった。

しかし、よくも悪くも青べかは青べかなんだ、普通の舟なんかじゃないんだ、と諦めたとたん、青べかがどう操作されればどう進むのかが見えるようになった。わかるようになった。「普通の舟」というありもしないフィルターを通さず、青べかを虚心坦懐に観察したからこそ。

私もまた、青べか。不格好でみっともなくて、「普通」とは程遠いかもしれない。けれど青べかを青べかだと認めて、虚心坦懐に観察し、特徴を見極めれば、操船の仕方は見えてくる。モーターボートとは行かないが、行きたいところに行ける。

「自分を信じる」は私にはわからない。けれど、「自分ってのは、こんなものだ。良くも悪くもね」というのならわかる。今日もそんな程度の自分を愛でながら、いたわりながら、ソロリと漕ぎ出でる。

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