過去をなぞり、前提を変えてみる

私の開発した有機養液栽培はあまりに簡単すぎて、学生の中には、これが140年以上誰も成功しなかったとは信じがたく、「なんだ、そんな簡単な方法ならさっさと試しゃよかったのに」という感想を述べるのもいた。創作というのは、つべこべ言わずエイッて試しゃできるもんだ、とその学生は思ったらしい。

確かに、たった3つのコツ(水1リットルに土を10グラムほど漬ける、肥料を1グラム以下加える、二週間曝気する)だけで成功するような方法、簡単に見つけられそうな気がする。しかし、140年もの間、誰も成功しなかったのは事実。ではなぜ、うまくいくようになったのか。

「知る」と「知らない」の境界線を明確にしたからだと思う。過去の研究者が試したことを調べ上げ、まだ試されてないことは何か、明確にした。
過去の研究者は、有機肥料をたくさん加えたり、ずっと継続的に加えたりしていた。最初だけちょびっと、というのはまだ誰も試していなかった。

最初だけちょびっと、を試してみると、死ぬはずの硝化菌が死ななくなった。有機肥料を加えると必ず起きるはずの脱窒という反応が、起きなくなった。これまでの研究者がどうしても克服できなかった、硝化菌の活性化と脱窒菌の抑制を達成することができた。

有機肥料を加える、という行為としては、最初だけちょびっと、であろうと、大量に、であろうと、継続的に、であろうと、みな似たようなものに思える。だから誰も試さなかったのだろう。私は、どうやら最初だけちょびっと、というのは、140年以上誰も試していないらしい、ということを踏まえて試した。

実にわずかな工夫。創意と言えるほどの創意ではない。しかし、誰もまだ試してなかった。だからうまくいった。
「最初だけちょびっと」に気づけたのは、偶然ではない。過去の研究者の結果が教えてくれたことから推察できたことでもある。

有機肥料を入れたら硝化菌は死んでしまう(不活性化する)、ということは、過去の研究者がさんざん失敗して、データで示されていた。どうやら硝化菌にとって、有機肥料は毒らしい、というのははっきりしていた。そして、硝化菌にとっての致死量も、過去の論文でおおよそ推定できた。

「だったら死なない程度の量に減らしたらどうなるだろう?」というのは、自然な発想。しかし過去の研究者は、そんなにちょびっとの量では、植物に与える肥料としては全然足りない、という焦りがあり、ドバッと有機肥料を加えていた。焦りから、「ちょびっと」を試せていなかった。

また、有機肥料をたっぷり加えると、せっかくたまたま硝化菌が頑張って硝酸を作ってくれても、脱窒菌が窒素ガスに変えて抜いてしまう問題があった。過去の研究者が苦しみ抜いたもう一つの問題。これも過去の研究を調べると、見えてきたものがあった。

脱窒菌は有機肥料をエサにして、そのエネルギーで硝酸を窒素ガスに変えていた。
過去の研究者は、有機肥料が硝化菌が死んで硝酸を作ってくれなくなるし、無理やり硝化菌を加え続けてなんとか硝酸を作らせても、脱窒菌ガ繁殖して窒素ガスに変えてしまう問題を解決できなかった。

有機肥料を加える限り、硝化菌が死ぬことと脱窒菌が元気になってしまうことは避けられない、という諦めが論文からにじみ出ていた。けれどこの二つの問題、「最初だけちょびっと」で解決できそうに思えた。硝化菌は、少しの有機肥料なら耐えられるかも、と仮説を立てたのはすでに述べたとおり。

また、脱窒も、有機肥料をくわえるのを「最初だけちょびっと」にしたらよいのでは、と思われた。最初だけにしとくと、脱窒菌は有機肥料は食べても、硝酸はないから窒素ガスに変えようがない。そして硝化菌が硝酸作り始めた時には有機肥料はもう食べ尽くして、脱窒を行うエネルギーがない。

これらのことが過去の研究から見えてきて、まだ誰も試してないようだから試した。それがドンピシャだった。
創造、創作とは何か。まだ誰も試してないことを試すことから生まれることだと思う。それにはまず、どんなことが試されたかを調べ尽くすことが大切。過去を調べ尽くす。

すると、まだ誰も試していないことが見つかる。それを試していくと、まだ誰も発見したことのない現象と出会える。「知る」と「知らない」の境界線さえ明確になれば、その境界線上のことを試していけばよい。すると、まだ誰も目にしてないことに出会える。

その学生さんが言うような、エイッて試せばできるなんてものではない。私たちは「思い込み」が結構激しい。ドアノブがついていたら押すか引くかのドアだと思いこんでしまう。まさかスライド式のドアだとは思わなくなる。スライドさせようなんて夢にも思わなかったりする。

息子が赤ちゃんのとき。むずかった。ミルクでもない、オムツが濡れてるのでもない、体調が悪いのではないか、と、YouMeさんと義父母が心配していたことがあった。私は、昨日と今日で何が違うのか確認し、「暑いんじゃない?」と、毛布と服をはいで裸にしたら、スヤスヤ眠り始めた。

昨日までは暖かかったけど、今日は冷えるからと赤ちゃんに毛布をかけていた。こんなに寒いのだから暑いはずはない、と思いこんでたら、赤ちゃんは暑がっていた、というオチ。これも、思い込みが発見を難しくしていた。昨日と今日の差を確認し、まだ試してないことを試して、解決できた。

創造、創作に必要なことは、観察だと思う。そして昨日までと今日との差、今まで試されたことと試されていないことの境界線を明らかにし、まだ試していないことを試すと、今までとは違う結果が生まれてくる。
だから、創造、創作は、過去をよく知る必要がある。過去は創造の生みの親。

金属の分野で有名な現象に、水素脆化というのがある。水素ガスが金属に染み込んで脆くする現象。もはや教科書的な話だったらしい。
ある研究者が、徹底して水素ガスを金属に染み込ませたらどうなるのか試してみた。すると、意外なことに金属はむしろ丈夫になった。

どうやら、水素ガスで金属が脆くなるのは「中途半端に染み込ませた場合」のことで、高濃度の水素ガスを高圧で染み込ませたらどうなるかは、誰もまだ試していなかったらしい。その結果、水素ガスを貯め込んでも脆くならない金属タンクを作れるようになったようだ。

教科書に書かれているようなことでも、前提が変わると新しい現象にぶち当たったりする。水素ガスで金属が脆くなるというのは教科書的現象だったが、これにも「中途半端な濃度と圧力の水素ガスにさらしたら」という前提が暗黙のうちにあった。この前提を変えたら新しい現象が起きた。

だから私は、教科書は創造の宝庫だと考えている。教科書的現象は、教科書が暗黙のうちに決めてかかっている前提がある。その前提を守る限り、教科書通りの現象が起きる。しかし前提を変えたら?まだ誰も確認したことのない現象が起きる可能性がある。暗黙の前提を変えればよい。

だから私は「これが暗黙のうちに認めている前提を変えたらどんなことが起きるんだろう?」とワクワクしながら教科書を読む。教科書は、未知との境界線を教えてくれる、まだ誰も試していないことは何かを教えてくれる、創造的な存在。
過去をなぞり、まだ試されてない境界線を突き止めることは楽しい。

創造的なことをしたければ、過去をなぞること。なぞることで、暗黙の前提を突き止める。そして、その前提を変えてみる。すると、創造的なことが起きる。私は、比較的容易に、誰でも始められる創造性として、そんな方法があると考えている。

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