自分の「安心」のために部下の思考を奪うか、「信頼」し部下を能動的に躍動させるか

昨晩は「手の倫理」読書会。とは言え、私は読んでないけど。参加者によると、安心と信頼、というキーワードが載ってるらしい。部下が失敗しないよう、事細かに教え、失敗したら激怒し、自分の想定外の行動するのを恐れ、自分の指示通りに動くようコントロール下に置こうとする「安心」。

部下には自己判断するだけの能力があると考え、任せる「信頼」。ここしばらく、「失敗を楽しむ」ことを書いていたけど、どうやらとても関連するキーワードのように思う。
三国志のヒーロー、諸葛亮孔明が、自分の後継者と考える馬謖に軍を率いるよう命じた時のこと。

孔明は馬謖に、「絶対に山の上に陣地を築いてはならない」と口酸っぱく命じた。馬謖は自分の才能に自信があり、まるで軍事のど素人扱いされたことが面白くない。そこで、指定された山に着いたとき、孔明の指示とは逆に山の上に陣地を築いた。山の上に陣地を築いても勝てることを見せてやろう、と。

ところが山には水源がなかった。敵に山のふもとを押さえられ、水を汲みにいけない。たちまち軍は干上がり、ヤケになって攻めたが、案の定負けた。孔明は指示に従わなかった馬謖を泣きながら斬った。これが「泣いて馬謖を斬る」ということわざの語源。しかし私は思う。孔明の接し方にやや難がある、と。

馬謖は自分の才能に自信のある人間。そんな人間に事細かに指示を出したら、アマノジャクな気持ちになり、逆のことをしたくなる心理をなぜ孔明は読めなかったのか。自分の「安心」を優先したために、馬謖がそれを言われたらどんな気持ちになるのか想像してみるゆとりを失ったのではないか。

もし馬謖を「信頼」しているなら、馬謖が「あ、この山、水源がないな」と気がつき、兵法の常道とはずれるが、山の上に陣地を敷かないよう気づくだろう、と考えたろう。それができなかったのは、孔明が馬謖を「信頼」するより、自分の不安解消、「安心」を優先したためだろう。

もしどうしても心配なら、孔明は馬謖にあれこれ指示を出すのではなく、「訊く」べきだった。「この山に陣地を築いたらどうなると思う?」「水源はどこだろうか?」着眼点を示しつつ訊ねたら、馬謖は水源が山になく、山に陣地を築いたらたちまち干上がることに気がつき、自らそれを口にしたろう。

自分で気づき、どうすべきか口にしたことなら、馬謖は自分の考えでその結論に至ったと考えることができ、山の上に陣地を築くことはなかったろう。孔明はヒントを示しつつ考えを訊ね、馬謖自身の思考と行動を促すべきだった。
このときの孔明の「失敗」はやがて、別の大きな問題を生むことになる。

孔明のライバル、司馬懿のもとに孔明から使者が来た。司馬懿は孔明の様子を探ろうと、使者に孔明の仕事ぶりを訊ねた。「公平な裁きをするため、兵たちの小さな罪でも自ら裁いています」と誇らしげに使者は答えた。
司馬懿は使者が帰った後、「孔明は死ぬぞ」と予言した。事実その通りになった。

司馬懿はなぜ孔明の死を予言できたのか。部下に任せればよいような細かい仕事も部下に任せられず、すべて自分の仕事として抱え込んでいたら、仕事が多すぎて過労で死んでしまうと考えたから。そして事実、孔明は過労で弱っていた。ではなぜ、孔明は過労に陥ったのか?私が思うに、馬謖を斬ったから。

馬謖を斬ったことで孔明の指示通りに動かない者は斬り殺される、という前例ができた。これで軍の中には、自分の頭で考える人間がいなくなり、どんな些細なことも孔明の判断を仰ぐようになったのだろう。この結果、孔明は細かい仕事もすべて指示を出さなければならなくなり、過労に倒れたのだろう。

すべてを自分の思い通りにしようとする「安心」を得るために、部下の判断を「信頼」できず、最善の判断と自分の考えを信じ、それを部下に押しつけるやり方を続けた結果、軍全体が孔明の指示なしに動けなくなってしまった。そんなことになったら、身が持たない。それを司馬懿に見抜かれた。

孔明はこの頃、我が軍(蜀)に人材がいない、と嘆いているシーンがある。自分の頭で考える人間がいない、と嘆いている。ところが。
劉備と共に蜀を攻めた時、次から次へと強敵が現れるので「蜀にはなんと人材が多いのか」と驚いているシーンがある。それだけの人材がいたのに、どこに行ったのか。

孔明が自らの判断を最善と考え、部下に任せる、委ねることができなかったのが原因で、蜀の人間をみな孔明の指示に逆らわない指示待ち人間に変えたのが原因ではないか。その大きなきっかけが、馬謖を斬ることになった事件ではないか、という気がする。

ところで、孔明は天才と言われながら、劉備に仕えていた。なぜ天才なのに、劉備に仕えていたのだろう?

百万の兵に囲まれた時、趙雲は劉備の妻と赤子を見失った。必死に敵軍の中を探し回り、妻は助けられなかったが、なんとか赤子を助け出した。

赤子を手渡された劉備は、赤子を別の部下に任せ、趙雲に「私の子どものためにお前を危険な目にあわせた。済まなかった」と謝った。お前を失ったら、私はどうしたらよいだろう、と。
その言葉に感激した趙雲は、以後、劉備軍のために獅子奮迅の働きを見せるようになる。

劉備が愚かなら、趙雲を責めることもできた。なぜ妻は死んだのか、そもそもいったん妻子を見失うとはお前の失態ではないか、責任をとれ、と。罰することもできた。そして、趙雲が劉備のために働く気をなくすようにすることもできた。しかし、劉備はそうしなかった。

失ったものはもう仕方ない。あの混乱の中で妻子を見失うのも仕方なかった。百万の敵軍に囲まれた中で戦いながら探し続け、敵軍の真ん中から赤子を抱えて脱出したその能動性に劉備は感動し、その点を見逃さなかった。趙雲は罰せられると覚悟していただろう。任されていた妻子を守れなかったのだから。

ところが失敗をとがめるのではく、命をかけて使命を守ろうとした能動性に劉備が気づいてくれ、しかも身を案じてくれた。身を危険にさらしてはいけない、と。ここまで言ってくれる人間に出会えたことに感激し、逆説的だが、この人のためなら危険をいとわない、という気持ちになるのではないか。

人の心をつかむという意味では、劉備は卓抜していた。孔明という天才、趙雲や関羽、張飛といった豪傑をも従えた劉備自身は、孔明ほどの知力もなく、豪傑たちほどの武勇もなかった。しかし、劉備には圧倒的な力「部下の承認欲求を満たす力」があったように思う。

部下に任せたら失敗もひっくるめて部下に委ねる。部下がやったことなら失敗に終わっても仕方ないと腹をくくる。部下の能動性を評価し、頑張りすぎないようにいたわる。劉備は、そうすることで部下の能動性を引き出し、ますます奮起することをよく知っていたのだろう。だから部下は最高のパフォーマンスを発揮した。

孔明は自分ほどの能力を持つ者はいないと考えたのだろう。だから部下に任せられず、自分の最高の答えを部下に押しつけて平気になり、部下が自分で考えない状態にしてしまったのだろう。
劉備は逆に、自分にない部下の能力を高く評価し、任せることで、部下の能動性を引き出した。

孔明のような才能あふれる人間は、周りが愚かに見えて、人が育てられないのだろうか?
西郷隆盛は、賢さと豪傑のような強さをあわせ持つ人間だったようだ。若い頃は激情家で、ビシバシものを言う人間だった。ところが人の上に立つにつれ。

茫洋とした姿になり、部下に任せるようになった。似た人間として、西郷の親戚でもある大山巌がいる。大山も才気煥発な若者だったが、人の上に立つと、まるで少し抜けたような振る舞いを身につけた。
日露戦争で、もうもたない、全軍総崩れになるかも、という局面の時、総大将の大山巌は。

昼寝から起きてきたばかりといったのんびりした感じで「今日もどこかで戦がありますか」。それで緊張しきっていた将軍たちに笑みがこぼれ、思考の柔軟性を取り戻し、局面を打開することができた。
大山はあえてのんびりした声を聞かせることで、将軍たちの無意識に働きかけたのだろう。

「負けたら死ねばよいだけ。ジタバタしなくてよい」。戦局を知らずに大山がのんびりした声を出したのではないことは将軍たちも知っていた。どんな局面でも、死ぬことがわかっていても、どっしり構えることが大切なのを、あえて声色と場違いな声かけで気づかせたのだろう。これもいわば「ナッジ」。

大山のもとでは、部下たちは非常に働きやすかったようだ。部下たちを信頼し、彼らが能動的に動くならば、それは最善である、と構えていた。たとえ誤った判断をしても、仕方がなかったととらえ、その失敗を部下は学び、次に生かすと信じ、任せた。だから部下たちは躍動的に動いた。

才能あふれる人でも、西郷隆盛や大山巌のように、部下の能動性を引き出し、彼らの学習能力を最大限高め、失敗が起きてもそれを次に生かすロバスト性(転んでもただで起きない)を獲得するだろうと信頼する。そんな大将になることは可能。武勇や知略のない劉備や劉邦も、部下の能力を引き出した。

才能のある人は、自分の才能を最大限引き出すことに集中し、他人の才能を引き出すのを怠ることがある。しかし、劉備や西郷、大山のように、部下の才能を引き出すことが、リーダーには大切。そのためには、一見愚かに見える振る舞いの方がうまくいく。それに気づけるかどうか。

※なお、上の三国志の話は、横山光輝「三国志」をもとに語っています。

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