期待せず、信じず、驚くことが「ありがとう」の関係を生む

大人になるということは、承認される側から承認する側に変わることなのかもしれない。子供の間は「ねえ見て見て!」とか、「ほらすごいでしょう!」というように、大人に承認してもらおうとする。承認してもらえた喜びをバネに再び新しい世界へと飛び込む。それが子供の成長というものだと思う。

大人になるとそれを逆転させる必要がある。承認を提供してもらう側から、承認を提供する側へ。子供の頑張りを、他人の頑張りを承認する。それが大人になるということなのかもしれない。

しかし大人になっても子供の時と同じように承認を求めてしまうことがある。「私は何々である」「俺は昔、何々だった」と自分語りから始めてしまう。さすが!すごい!と言ってもらいたくて。スナックなどだと店員がすごい!さすが!と言ってくれるかもしれない。しかし一般社会では「ふーん、それで?」

大人になって自分の承認欲求を満たす一番の方法は、他人の承認欲求を満たすこと、という矛盾がある。まずは他人の承認欲求を満たすと、「この人は良い人だ」となって、承認してくれる。まずは承認を提供して、その後に承認が得られるという構造。そのことに気付く必要がある。

承認欲求と言うと、相手の全存在を無条件に肯定するみたいな話にまで発展しかねない感じが。もう少し軽い話で十分だと思う。
以前も紹介したが、YouMeさんの公園デビューはスムーズだった。いつの間にやら初対面のお母さんと仲良く話してる。大阪の初めて行く公園でも。どうしてるのか観察してみた。

YouMeさんは公園に着くと、公園で走り回る子どもたちに驚いた。「うわ!足速いなあ!」雲梯で遊んでる子がいたら「上手に渡るねえ!」まだ赤ちゃんの息子に語りかける形で。すると、自分のパフォーマンスに驚いてる大人がいることに気がついて、「ぼく、こんなこともできるよ」とアピール始まる。

息子に語りかける形で「うわ!そんなこともできるの?」と驚くと、ますますハッスル。そのうち、「その子、おばちゃんの子?」と聞いてくる。「そうなの、一緒に遊んでくれる?」と言うと、「いいよ!」と遊んでくれる。
我が子がよその子の面倒見るなんて珍しい、と思った母親が近づいてきて。

YouMeさんは「優しいお子さんですね。うちの子面倒見てもらっちゃって」と驚くから、母親も嬉しくなって、地元スーパーのお得情報を教えてくれたり。私はもう、観察していてびっくり。
人のパフォーマンスや優しさに驚いていると、好意の形で返ってくる。やがて、こちらのことも承認してくれる。

「承認」なんていう音読み熟語使うとなんだか重々しいけど、「驚く」とよいのだと思う。人のパフォーマンスや優しさ、工夫に驚いていると、逆にこちらを認めてくれる。「驚く」は、相手の承認欲求を満たした上で、今度はこちらの承認欲求も満たそうとしてくれる。

「そんなの当たり前だ」だと驚けない。「オレの方がもっとすごい」では驚けない。そして自分のパフォーマンスで人を驚かそうとする。けれど相手のことに驚こうとしない人には、驚く気がしない。「ふーん、で?」となる。まずは自分が驚くこと。他人のパフォーマンスを当然視せずに。

渡し船が川の一番深いところに来た頃、船頭が良寛さんを水の中に落とした。どこでどういう噂を聞いたのか、良寛さんだと気づいた時、船頭は懲らしめてやろうと思ったらしい。袈裟が邪魔でうまく泳げず、いよいよ沈むというところで、船頭は助け上げた。そのとき良寛さんが発した言葉は。

「ありがとうございます。あなたは命の恩人です」呆気にとられる船頭。自分が叩き落したのは分かっているはず。罵られて当然と思っていたら、命の恩人?
岸に着いても両手を合わせ、「ありがとう、ありがとう」と心から感謝しながら良寛さんは立ち去った。船頭はその後、大変後悔したという。

もし私が良寛さんの立場だったら、助け上げられた後に発する言葉は「人殺し!死ぬところだったじゃないか!」という文句だったろう。「船頭は無事に岸に渡すのが仕事だろう!人を水に落とすとは何事か!」と正論でやり込めようとしたかもしれない。あるいは、また落とされてはかなわぬと思って黙るか。

文句を言って当然の場面で、なぜ良寛さんは感謝できたのだろう?「人殺し!」ではなくなぜ「命の恩人です」という言葉が出たのだろう?
良寛さんは他の場面でも殺されかけている。盗賊か何かと間違われ、首だけ出して生き埋め、そのままのこぎり引きされそうなところで知り合いが通り、命拾いした。

知人は「なんで自分じゃないって主張しないんですか」と怒ったら、良寛さんは「私が犯人だと思っているんだもの、殺されるより仕方ないじゃないか」と答えたという。
船頭の話も、生き埋めの話も、諦めている、期待しない点で徹底している。良寛さんは、運がなければ殺されても仕方ないと考える人。

たぶん、船頭に叩き落されたときも、「ああ、このまま死ぬのか、仕方ない」と思っていたのだろう。船頭が私を殺す気でいるのなら、仕方がない、と。けれど船頭の心の中に、そろそろ助けてやるか、という仏心が生まれた。まさか!自分を殺すだろうと思っていた人間の心に、仏心が!

自分を殺そうとした人間の心に仏心が芽生えた奇跡に、良寛さんは驚いたのだろう。まさか、そんなことが起きるなんて、と。その奇跡に対し「ありがとう」と言わずにいられなかったのかもしれない。その仏心を「命の恩人です」と言わずにいられなかったのかもしれない。

良寛さんのこの域はもはや達人だけれど、良寛さんが人の良心の芽生えに驚き、有り難いと感謝できたのは、徹底して期待しないから、諦めているからではないか。期待していないのに、諦めているのに、それが生まれた。その奇跡に驚き、感謝せざるを得ない。そんな境地に良寛さんはいたのかもしれない。

「期待しない、諦める」というと、「あいつはもう信じられない。裏切られた。もう金輪際あいつからは期待しない」という、どちらかというと、「見捨てる」に近い心理を想像する人が多いかもしれない。しかしそうした「見捨てる」が起きるのは、期待していたからだと思う。期待に相手が沿わないから。

良寛さんは、決して人を見捨ててはいない。ただ、人はそういうものだ、とは思っている。自分に正義があると思い込んでいるとき、何かの勘違いで相手を悪とみなし、憎悪に駆り立てられて人を殺すことだってあり得る、そういう生き物。現実を素直に、そのままに認めていたのだろう。その上で。

良寛さんは、「祈り」を棄てていないような気がする。人は時に残虐になる。憎悪に駆られて殺人することもある。でも。時に人は、あっと驚くような面を見せることがある。期待はしないけれど、諦めてはいるのだけれど、時にそれを見る僥倖に遭うことがある。その祈りは捨てていないのでは。

赤ちゃんを見守る母親の心境に似ているかもしれない。親は赤ちゃんに言葉や歩くことを教えることはできない。「ほら、言葉を話せよ!」「おい!いつまでもハイハイしていないで立てよ!歩けよ!」と期待したって、無駄。赤ちゃんが赤ちゃんのペースで成長するしかない。見守るしかない。

その時、母親は祈るしかない。いつ言葉を話すか、立つようになるのか、期待しても無駄。ただ、健やかに育ちますように、もしかなうなら、言葉を話し、立てるようになりますように、と。そして赤ちゃんが言葉を話したとき、「いま、言葉だよね?しゃべったよね?」と驚く。「立った!今立ったよ!」

良寛さんは、赤ちゃんを育てながら祈る、母親の心境に達していたのかもしれない。期待はしない。それはそういうものだから。でももしかなうなら、と祈りは捨てない。そしてたまたま、それ(仏心)が誕生した時、その奇跡に驚く。「いま生まれた!生まれたよね!」と。

私は、自分に好意を持ってくれる人がいることの奇跡に感謝せざるを得ない。その人の心の中に、好意というものが生まれたことへの奇跡に驚く。
子どもが何かに前向きになったとき、その意欲が生まれた奇跡に驚く。部下が仕事を前向きにとらえたその心構えの誕生に驚く。

人の心に起きること、それは他人にはどうしようもない。自分に好意を示してくれたり、何かにやる気を示してくれたり、工夫を凝らそうと意欲を見せたり。これらは、自分にはどうしようもないこと、手出ししようもないこと。だけど生まれた!その奇跡に驚かずにはいられない。

ところが不思議なもので、そうした奇跡に驚いていると、驚かれた側は「え?こんなことで驚くの?じゃあこれは?」と、さらに工夫したり、意欲を高めたりしてくれる。すると、こちらはさらに奇跡が連鎖したことに驚く。こちらの驚きが意欲を高め、その意欲の誕生にまた驚き、という好循環が生まれる。

良寛さんの域には達せないけど、「これはこういうものだ」という事実を認め、期待せず、だけどどこかに「祈り」を捨てずにいる。そんな心境にある時、人は自然に驚けるようになると思う。そしてその驚きが、人の好意ややる気をさらに誘発するという奇跡が立て続けに起きる。

そして面白いことに、「こんなに自分の好意や意欲に驚いてくれる人に出会えるなんて」と、相手も自分を手放したくなくなるらしい。「自分に驚いてくれる人に出会えた奇跡」に相手も驚き、自分に好意を持ってくれたりする。驚きは、相手からも驚きを誘発し、互いに「ありがとう」の関係が生まれる。

良寛さんはおそらく、人間に一切期待しない人だった。人間は人間。人間というものを良くも悪くも等身大にしか見なかった人だろう。けれどその人間が時折見せる奇跡を知っていて、その奇跡に出会えることを祈っていた人だろう。良寛さんが当時、大変な人気を誇ったのは、そのためではないか。

私の名前は「信」だけど、良寛さんはたぶん、人を信じていなかった。人はこういうときはこうすべき、などと期待するような信じ方はしなかった。時折、「信じていたのに裏切られた、信じられない」という言葉を聞くことがあるけれど、良寛さんはそういう意味では、まったく信じない人だったのでは。

人間は人間である。人間は人間でしかない。信じるも何も、人間はそんなものだから。でも、人間をいとおしく思わずにいられない。たまに見ることができる奇跡、それに出会えることを祈らずにいられない。そんな人だったのではないか、と思う。良寛さんという人は。

期待もしない、信じもしない。でも、心のどこかで奇跡が起きることを祈っている。そんな心理状態の時、その「奇跡」に出会えた時、驚かずにいられない。感謝せずにいられない。そしてそうした驚きは、「ありがとう」の関係を生み出す力になるらしい。

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