「善意無罪」考

以前中国で、愛国心であれば店舗を破壊するなどの暴力行為も許される、という「愛国無罪」というプラカードがあったのを記憶している。しかし、愛国心と暴力行為は「それはそれ、これはこれ」。許されるはずもない。それは「善意無罪」にも言えると思う。

善意からの行動であれば、たとえそれが結果的に迷惑をかけることになったとしても許されるべきだ、責められるべきではない、という「善意無罪」は、子どもであれば重要な考え方だと思う。子どもは無知であり、無邪気に親を喜ばせようとしてやったこと。その気持ちは汲んでやった方がよい。たとえば。

アニメ「ドンチャックの冒険」で、印象深い回があった(古い…)。子どもたちが親をビックリさせようと、洗濯物を干したり、料理をしたり、お手伝い。しかし、洗濯物が地面についていたり、しわくちゃだったり。「もう!やり直しじゃない!」と親は怒り、子どもはしょげてしまう、という話。

主人公のお父さんが、子どもたちが良かれと思ってやったことに怒ってしまったら、子どもたちは意欲を失ってしまう。その気持ちは汲んであげた方がよい、と諭すことで、大人たちは子どもに謝り、一緒に家事をやり直し、笑顔を取り戻すお話。子どもながら、「善意をくみ取ってくれてよかった」と思った。

で、大人は、というと。社会経験を積んできているはずの大人が、甘いも酸いもかみ分けてきたはずの大人が、「知らない」では済まされないことが多くなってくる。もうその年齢になったら、そのことは弁えておいてよ、ということが出てくる。なのに「善意だったんだから責めるのはおかしい」はおかしい。

もちろん、大人であっても知らないことは知らない。たとえば、全然異分野から来た人が新しい職場に来て、「そんなことも知らないのか!」と言われたって、知らないものは知らない。知らないことに無理がない場合に、知らないことを責めるのは、責める方が悪い。

ただ、「よかれと思って」迷惑をかけるのは、しばしば、いわゆる報連相(報告、連絡、相談)が足りない場合が多い。前もって相談してくれていたら、それをやらないで、と言えるのに、それがなかった場合、困ってしまう。「善意でやったのに」とむくれても、それでは困ってしまう。

ある程度、トシをとった大人になると、報告・連絡・相談が必要になる。もし、どうしても報連相することができず、だけど放置するわけにいかず、自分の判断で行った場合は「こうしておきましたが、よかったでしょうか?」と、善意からの行動であっても、失敗だったかもという謙虚さが必要。

もしその謙虚さが部下から示されている場合は、上司としては許すことが必要。その謙虚さがあるということは、たとえ後から見ればまずい対応であったとしても、部下が最善を尽くしたことがはっきりしているから。「それはこちらの指示不足が原因、気にしないでください」と、慰めた方がよい。

しかし、「善意からやったのだから、たとえ失敗に終わったのだとしても責められるべきではない」という「善意無罪」の場合、謙虚さが欠落している。この場合、善意であれば対応が粗雑であっても、人を傷つけても許されるべきである、という思考の粗雑さがあり、同じ失敗を繰り返すリスクがある。

しばしば、悪意の方が善意からくる悪行よりマシ、と言われるのはそのため。悪意からくる行為は、こちらも真正面からケンカできる。向こうはケンカしたくてふっかけているわけだから、まあ、気が楽。しかし、「善意無罪」は自分が善人で責める人間は悪人、というところにしがみつくから厄介。

善意であればすべての罪は許される、という免罪符。そんなものは、大人にはない。善意であっても誰かを傷つけ、迷惑をかけることがある、という謙虚さが必要。大人には、「仮説思考」が必要。精いっぱい考えて一番妥当と考える仮説に基づき、行動するけれど。

前にうまくいった仮説が、今回も通じるとは限らない。何か事情が違っているかもしれないから。そんな場合、「そうか、こういう事情が加わった場合、こうしたほうがよいのか」と、仮説を更新する必要がある。大人とは、仮説を常に更新し、より妥当な行動をとるよう努力する人のこと。

「善意無罪」は、「善意からの行動はどんな結果になっても許されるべき!」という考え方。このため、行動がちっとも改まらない。改善が進まない。「善意無罪」の問題は、変わろうとしないという罪深さにあるといってよい。

では、なぜ「善意無罪」にしがみつく人がいるのだろう?「善意無罪」の人は、人から責められるのを極端に嫌がる。自分に欠点があるということを認める余裕がない。もしかしたら、真の意味での自己肯定感が欠落しているためかもしれない。

自分が「よい子」でなくなると、存在基盤が揺らいでしまうような、自信のなさを感じることがある。こうした人は、「善意無罪」にしがみつきやすい傾向を感じる。よい子でも何でもない自分を許容するゆとりが、どうも乏しい気がする。

失敗してもええんよ、人間なんだから。ダメなところがあってもええんよ、人間なんだから。ダメなところもだらしないところも失敗が多いところも全部ひっくるめて、あんたのことが好きやねん。そんな包摂的な許容が、その人には欠落している気がする。

「善意無罪」の人は、もっと自分を許してあげてほしい。他人が許す前に、まず自分が自分を許す。それがどうもできていない。アカン自分も、だらしない自分も、ダメな自分も、それが自分。そうした自分を愛すべき自分として、許し、愛す。すると、「無罪」にしがみつかなくてよい。

罪深き自分も、愛すべき自分。ダメな自分を笑って許せるように。そんなゆとりがあると、周囲も、あなたのダメなところも愛すべき特徴として許しやすくなる。なぜなら、ダメなところを認めることができるということは、失敗を認めるゆとりがあるということだから。

失敗を認めることができれば、物事をまっすぐに観察することができるようになる。すると、仮説を更新し、行動を改めることができるようになる。自分のダメさ加減を許し、愛すと、仮説思考が可能になる。

いい子である必要はない。善人である必要はない。人間は、人間なのだから。人間である自分を許し、愛し、物事をそのまま観察し、仮説を立てて修正していく。それでええやん、と思う。「善意無罪」の人は、まず自分自身のありのままを許し、愛してほしい。

大人になったら、たとえよかれと思ってした行為であっても、過ちを犯すことがある、という謙虚さを。しかしそんな自分も許し、愛し、では次に同じ失敗をせずに済ませるには、と、新たな仮説を考えること。その試行錯誤を繰り返すことが、大人になる、ということじゃないか、と思う。

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