「ありよう」を問うのではなく関係性を工夫する

「ありのままの自分」考。
良くも悪くも天真爛漫、他人からどう見えようが気にせず、思ったことはすぐ行動、という子どもがいた。ただ若干多動気味だったのでその行動ぶりに渋い顔をする大人が少なくはなかった。私は、まあそんなもんだろう、と思って、会えば「おう!」とあいさつ、会話を楽しんだ。

思春期になると急におとなしくなった。小学校までは気にならなかった「他人の目」が気になるようになり、こんなことを言ったら嫌われるだろうか、こんなことをしたら嫌がられるだろうか、ということが気になって、言動をセーブするようになったらしい。

思春期は、自分が他人から見てどう見えるか、ということがとても気になるお年ごろ。活発だった子どもも、少なからずが思春期におとなしくなり、外交的だった子が内向的になったりする。そして、素の自分を出さなくなり、苦しむようになったりする。

どうやったら好かれるか。いや、どうやったら嫌われないか。若干騒々しくて、おとなしいクラスメートから嫌われがちな子は、特に思春期になるとどうしていいのかわからなくなる。小学生の頃のノリが変わり、それではうまく関係を取り結べなくて戸惑う。その子もそうだったのかもしれない。

よく起きる現象として、「好かれそうな、自分じゃないキャラ」を演じることで好かれようとする場合がある。この場合、疲れる。無理しているから。で、「ありのままの自分」のまま愛されないことに悩み、自分じゃない仮面をかぶり続ける自分を嘘つきのような気がして、辛くなる。

私もそういう時期があったので、偉そうなことは言えないが、30歳を超したあたりから「あ、これは無理ですわ」と諦めた。私は私。良く見せようとしても限界があるし、悪ぶっても大したことはない。良くも悪くも等身大の私。どうせ他人もすぐ見破ってしまうのだから、と諦めた。

で、自分をよく見せようというのは諦めた代わり、相手との「関係性」を工夫するように、だんだんなってきた。自分はこんなもんです、不愉快だったらごめんね、で、あなたに不愉快な思いをさせず、なるべく愉快な気持ちになってもらうには、さてどうしたらいいかな?という接し方の工夫。

相手から自分がどう見えるのかは、コントロールできない。そう見えるならそう見えるんだから仕方ない。自分にできるのは、言葉やしぐさで、相手と良好な関係性を結ぶのによさそうなのは何か、試行錯誤すること。自分のキャラをどうしようではなく、関係性をどうしよう、というシフト。

すると、ずいぶん楽になった。欠点も長所もある、でこぼこの自分のまま、それを好いてもらおうとも思わず、ただ相手に不快な思いをなるべくさせず、楽しく過ごしてもらうための工夫。でも無理はしない。無理をしないでできる範囲のこと。無理が出たら諦める。その人とはご縁がなかったと思って。

考えてみると、「ああ、この人はいい人だ」と感じるときって、相手のスペック(社会的地位、学歴などその他、外面的なもの)ではなく、相手が自分にどんな言動をしてくれたか、という「関係性」のところで決まるように思う。もし言動がひどければ、相手のスペックなんか関係なしに悪印象。

「ありのままの自分」という言葉も、実はおかしい。自分がどういう姿か、ということに意識が集まっている。けれど、他者との関係性は、自分の姿やスペックで決まるのではない。相手にどのような言動をとったかで決まる。自分がどうあるかではなく、相手にどうしたか。

なのに、「もっとマシな自分になれば好かれるのだろうか、嫌われずに済むのだろうか」と、自分のありようばかりに意識が行ってしまう。しかし自分のありようなんか、時と場所で全然違ってしまう。そもそも、自分って何者?と問うても何も出ない。むいてもむいても芯のないタマネギみたいなもの。

それよりは、相手と対した時、相手にどんな言動をすることができるか、の工夫の方が有効。そしてその言動は、無理しなくてよい。無理をすると必ず反動がある。反動があるような無理はしなくてよい。でも、ちょっぴり挑戦してみるのはアリ。今までやったことのない工夫を試してみる。失敗してよし。

すると、その試行錯誤の中で、失敗を重ねる中で「次はこうしてみよう」という気づきが得られ、次第に関係性の作り方、言動の工夫が磨かれていく。すると、関係性は改善していく。自分は何も変わらなくて構わない。相手への接し方を工夫しただけで。

「私はどうしてこんな奴なのか!」と自分を責めても仕方ない。自分を強く責めれば罪を償った気がするだけ。でも、自分を責めれば必ずと言ってよいほど、反動で「いいわけ」がもたげる。「こうした場面ではこうしよう」と心に決めていたのに、いざその場になると、困ったことに「反動」が起きやすい。

「そんなんやってられっかー!本当の自分はこんなんじゃないわー!」とキレる。そして後で激しく後悔する。自分を強く責める。その反動が水面下で強まり、またしても爆発する。その繰り返し。自分を型にはめようとするからはみでようとする。

ええですやん。でこぼこの自分のままで。まずは自分のでこぼこを責めるのをやめ、「そうかあ、こんなふうにでこぼこしているのかあ」と観察し、楽しむ。そしてでこぼこなりにできることを考える。どんな工夫をすれば、でこぼこのまま改善が図れるか、挑戦してみる。

自分のでこぼこと、相手のでこぼこ。これをよく観察した後は、無意識が出す答えに任せる。その瞬間、こうした言葉、仕草をしたほうがいいみたい、という仮説を無意識は提案してくる。それに乗ってみる。挑戦してみる。失敗もする。つうか、失敗する。ただ、失敗しても、それを観察するのを楽しむ。

次の瞬間、どんな言動をするのか無意識の出す仮説にゆだね、失敗しては観察して楽しみ、失敗を観察したことで無意識が出してくる「次はこうしてみたらどうだろう」という仮説に乗ってみる。それを繰り返す。すると、人間AIは、その試行錯誤からきちんと学んでくれる。

たくさんの失敗から、成功の輪郭を浮かび上がらせてくれる。無意識がそうしてくれるのを待つ。そのためにも、無意識に失敗というデータをたくさん提供する。そして意識は、失敗を嫌がるのではなく、むしろ楽しんでよく観察し、気づかなかったことに気づこうとする。すると、無意識は学ぶ。

すると、無意識の出してくる「仮説」の精度が上がってくる。不思議なもので。
人間は、意識が強いとろくなことがない。意識は何かに囚われやすく、無意識の学習を邪魔することが多い。意識は観察という業務に特化させて、言動の操作をさせないほうがよい。

自分がどう見えるか、自分がどうあるべきか、なんてこと忘れて、自分のでこぼこも楽しみ、相手のでこぼこも愛し、でこぼこ同士の関係性をどうすると面白いことになるかを考えてみる。その工夫に特化したほうが、関係は改善されやすいように思う。

「ミツバチの会議」という本に、面白い事例が紹介されている。大学教授というのはクセの強い人が多いらしく、声が大きくて、異論反論が出ると「いやそれについては」と発言を遮り、持論を展開するを繰り返し、その場にいる人間を辟易させることで押し通す人がいたりするらしい。

こうした人の人格を変えよう、なんて風に考えると、うまくいかない。「あなたは持論を主張してばかりだ、変わりなさい」と説教したところで、効果があるはずがない。その人の「ありよう」にこだわると、ドツボにはまって改善なんか起きやしない。けれど、その本の著者はちょっとした工夫をした。

会議に参加する全員に1分ずつ発言させるという単純なルール。自分の順番が来るまで発言してはダメ。
異論反論が出ると、声の大きな人は「それは」と遮りそうになるけれど、司会は「あなたの番が来るから。それまでは黙って聞く!」というと、ルールだから黙るしかない。

自分の番が来て、異論反論を攻撃するけど、それで1分終わってしまう。そして次の人が反対意見を述べたら、どれだけ強い主張をしたつもりでも会議の雰囲気は自分の主張と違う方向に行く。
それにこの「ミツバチの会議」法だと、ふだん物静かな人も、順番が来ると意見を述べる。時折、ハッとする意見も。

ハッとさせられる意見が出ると、「私も今の○○さんのご意見に賛成です」と追随する人が出て、雰囲気がそちらに進む。声の大きな人は、声の大きさで圧倒することが「ミツバチの会議」では無理なことを悟り、みんなに共感してもらえそうな意見を絞り出す工夫を始めるようになる。

この結果、「ミツバチの会議」では、全会一致で意見がまとまることが多いらしい。与えられた時間で、順番に話すというルールだと、みんなに受け入れてもらえそうな、共感を呼びそうな意見を言うしかないので、自然、建設的になるわけ。

この「ミツバチの会議」では、会議の参加者のキャラをどうこうしようとはしていない。ただ、会議の進行の仕方を工夫することで、建設的な意見が出やすいようにしただけ。すると、おとなしい人も声のでかい人も、建設的な意見を述べるようになる。関係性の工夫が関係性を改善する。

中国統一に成功した劉邦は、困り果てていた。まだまだ将軍たちが殺し合いの空気をまとったままで気性が荒く、宮殿の中で毎日のようにケンカが起き、斬り合いが起きるありさま。いくらおとなしくしろと命じても全然いうことを聞かない。「おれは本当に皇帝なのかな?」と思うほど。

劉邦は儒教嫌い、儒者嫌いだったけれど、叔孫通という人物が「任せてください」というので、任せてみた。荘厳な音楽が流れ、「お静かに」と伝えられる。それでも私語を続ける人間がいたら、会場から連れ出されてしまう。それを見て、みんな「静かにしておくか」となった。

「皇帝陛下のおなーりー」と声がかかると、進行役の人間が宣告し、お辞儀をするので、「あ、俺たちもか」となんとなくお辞儀する。
食事の際も、しゃべったりもめたりする人間は会場の外に出されるので、それを見て「あ、しゃべっちゃダメなのか」みんな黙々と食事。初めてケンカが起きなかった。

劉邦は喜び、「おれは今日初めて、皇帝が偉いんだと知ったよ」と述べた。
叔孫通は、儀式というものが、人々にどうふるまったらよいかを自然に悟らせ、そのようにふるまうことを容易にする力があることを知っていた。それが儒教のいう「礼」の力なのだろう。

「礼」は本来、人と人との関係性を良好なものにする「工夫」のことだったと私は考えている。人を変える必要はない。その振る舞いを変えればよいだけ。その振る舞いが、その場にいる人たちに心地よいものになるようにするだけ。その工夫が本来的な「礼」なのだろう。

人を変えよう、変わろうという「ありよう」をどうにかしようというのは、ちょっとアプローチとして無理がある。それよりは、関係性をどうしたら構築できるか、という工夫の方を考えたい。相手のありようを責めるのではなく、相手との関係性に工夫をしてみる。そのように「思枠」をずらしてみよう。

フォーカスするところがおかしいと、問題解決になかなか至らないことが多い。しかし視点をずらすと、意外にすんなり解決することがある。人間の「ありよう」をどうにかするのではなく、関係性を工夫してみる。それって、とても大切なことのように思うが、いかがだろうか。

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