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「すべらない話」にもう笑えなくなったこと

すべらない話を見ることに耐えられなくなっていた。

昨日、Youtubeでたまたま松本人志さんの「すべらない話」がオススメで出てきたので観てみた。香取慎吾さんが話していたのだけれど、何か辛い気持ちがして最後まで見ることができなかった。

すべらない話は自分が大学生の頃に始まって、学生の頃すごくはまって観ていた。しかし、昨日、もうこのノリにはついて行けなくなっていることに気づいた。

全く笑うことができなくなっていた。それは、話の内容というよりも、「すべらない話」の構造とかその話されている場の雰囲気に辛いものを感じて手放しで笑うことができなくなったのだ。

すべらない話には、同調圧力が感じられる。滑る話するなよ、面白い話を出来たら俺らの仲間として認めてやるという閉じようとするコミュニティの圧力を感じるのだ。そして、上手い事話せない人やすべりそうになっている人を可哀そうな人と言う形でみんなで蔑みの笑いを与える目線を感じるのだ。そしてその同調圧力は今まで会社や組織で感じていた男社会の独特の同調圧力と似ているのだ。

その雰囲気のある中で、お笑いのプロではない香取慎吾さんが、話していることに耐えられなかった。また、その場に自分を合わせよう何とか認められようとしている香取さんに耐えられなかったのかもしれない。

こうした雰囲気は、職場や飲み会で何度も感じてきたものだったのだ。

「面白い事言ったら俺たちの仲間として認めてやる」「俺達と同じ作法をしたら認めてやる」

こうした所与の圧力が多くの男性社会にはある。それは例えば会社などでは、キャバクラや風俗に若手を無理矢理連れて行かれ猥談を共有させる形で現れる。

そこで断ることができればカッコいいが、断ることで俺たちのコミュニティーには入れないという形で省かれてしまう。

(この文化は一体何なのだ?もう繰り返してはいけない)

そうした、過去に何度も見てきた男性社会の同調を強要する圧力とすべらない話はどこか相似しているのだ。だから、もう自分は「すべらない話」には笑う事が出来なくなったのだと思う。こうした笑いにはもう耐えられない。


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