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端的に言えないから人は対話する・会話する

尹雄大さんの言葉にはいつもハッとさせられる。尹雄大さんのツイキャスを聞いていたら次のような発言があった。


「いつだって言葉っていうのは、行き過ぎているか、不足しているかのどっちかなので、ピッタリっていう事はほとんどないわけですよね。だから時間をかけて話すっていう行為を人はすると思うんです。端的に言えるんだったら、おしゃべりするというか、時間が漂っていくっていう事はあんまり必要ないと思うんです。」(尹雄大 ツイキャス 2020/09/20 20:00配信分より)


この言葉を聞いて、私が、そしてもしかしたら、現代に生きる多くの人が見失っている大事なことがあるのではないかと感じた。

私たちが対話したり・会話したりするのは端的に自分の思っていることや考えていること、ある出来事を説明できないからなんだ。

だから、時間をかけて私たちは話さなくてはならない。

さらに、話す力には個人差がある。個人差があって良いのだ。

だから、わりと思っていることが早く伝えられる人もいれば、早く理解できる人もいる。逆にゆっくりしか伝えられない人もいれば、ゆっくりしか理解できない人もいる。そして、その速度の具合も極端に遅い人もいる。本来それを理解したうえで私たちはコミュニケーションしなくてはならないのだろう。

学問の世界でも、この先生本物だなと思うような人は、その事を理解して、何べんでも質問するように促す。生徒がどれだけついてくるのが遅くても、怒ったりしない。待つ。逆に、わかったふりをすることを警戒する。

ところが、ちょっと?な指導者になると、他者が自分の言っていることを早く理解できなかったりすると怒ったり、機嫌が悪くなったりする。そういう人は、「端的に伝えられないから人は会話する」という前提を分かっていない気がする。

そして、現代の色々な場面においても早く理解すること、早くコミュニケーションすることを最近求められすぎている気がする。

それが出来ない人は、「この人もう駄目だ」として切られてしまう傾向を感じる。自分も相手のそういう要求を感じてなるべく上手く・早く話そう、理解しようとしてしまう。そうして委縮してしまっている場面が多い気がする。(自分が要求してしまっている場合ももちろんある)

これはとても悲しいことだし、人間の本来のコミュニケーションを見失わせる愚かなことではないか?人間の本来のコミュニケーションは円滑なものではなく、めんどくさくて冗長なものなのではないか。

冗長で居られる、冗長なコミュニケーションを許容できる。そういうことを私は大事にしたいし、そういう人たちと付き合っていきたいと思うのだ。


〈追記〉

尹さんが9月6日のツイキャスで以下のような事を言っていた、大事な言葉だと思ったので、メモしておく。

「見たくないものを見る以外に、自分を改める方法はない。」

(だから、海外の映画や海外の問題、社会問題にも目を向けて欲しいという文脈で。)


他者を通して自分を見つめる、見つめ直す。

他者を通して自分を捉え直す。世界を捉え直す。


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