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自分達で決める心を奪われる時

(メモ)何だかモヤモヤすることがあったので書いておきたい。

生徒会がない学校って、すごく問題があると個人的には思っている。

生徒会があることは生徒の自治の心や行動を育てることになる。生徒会があることは市民社会に参加する練習になる。

ところが、知っているある学校には生徒会がない。私はそれをすごく問題に感じている。先日、その生徒会のない学校の親が「生徒会がないと自主性が育たないですか?勉強だけさせてればいいし、生徒会が無くたって自主性は育つでしょう?」と生徒会がないことがいい事のように言っているのを聞いて、呆れた。いや大人や学校の役割は生徒の自主性をより育てる事なんですよ。自主性を持ちたいと思ったときにそれを存分に生かし使える環境を用意しておいてやることなんですよ。ある意味でそれが大人の責任なのでは。

と強く思った。生徒会が無くたって、生徒は自主性を持てるというのは本当なのか?

それは違うと思う。生徒はその環境によって育つのである。つまり、もし生徒会がその学校にあればやっぱり生徒は自治的・運動的なことに参加しやすい雰囲気が既にある場所にいるから、エンパワーされて自分も自治や変革の動きに参加しようと思う。自分達で変えていこうという思いを持つことができる。ところが、そもそも自治的な雰囲気が熟成されていない場所では、なんかおかしい、自分達で変えていきたいという事態が起こっても、あるいはそういう心が芽生えても、生徒はどうしたらいいのか1(イチ)から自分で考えなくちゃいけない。そこに先行事例があるのとないのでは大違いなのだ。生徒会がない学校では、例えば生徒が校則を変えたいと思っても、その思いを表明することが奇異な事かと思って、いかなる運動も起こすことができない。つまり、生徒はそういう変革への思いを出過ぎたものだと感じ、ナイーブになり、変革への思いを押し殺してしまう。あるいは、あえて無知なふりをしてしまう。そういう事で運動をすることを照れるふりをすることになる。なぜなら、周りの生徒はそういう変革を起すことを奇異に見るから。でも、変えるべきことは変えていいんだ。自分達の事は自分たちで決めていいんだという環境があれば、その思いを押し込めずに、生徒達は自主的にさらに変えていこうとする。こういう場を作るのが大人の役割、学校の役割なのだ。ほっておいても生徒の自主性は育つというのは、環境を整えなくて良いという大人の甘えである。

生徒をなめるわけではないが、学校に生活する生徒は、周りからの目線をすごく気にする。自治の精神が全く無い環境にいる生徒が、これおかしくない、これ変えた方が良くないと思っても、そんな行動したら恥ずかしいと思って、私は政治に無知だというふりをする子どもがどれ程いるかと想像する。変革したいという心が起こっても、それをカジュアルに表明したり行動に起こさずに(起こさずに)多くの生徒は押し黙るのではないか?そういう場面がきっと日本の学校では沢山あるのではないか?そういう場面に何度も何度も遭遇するうちに、学校を創る一人として自治に参加する精神をそがれていくのだと思う。それはひいては、市民として政治に参加する心を徐々に削がれていくことの繋がるのだと思う。

今日もどこかの教室で、そのようにナイーブなふりをせざるをえない少年少女がいると思った。

そのことが残念でならない。(※1)


(終)




註:(※1)自分がまた、学校に戻ることがあれば生徒会活動を後押ししていきたいし、自分自身が市民として選挙だけではない政治活動、自治活動に参加していくことがすごく大切だと思った。





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