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若さの未熟を焼き切る~日本画家 堀文子氏について~

【メモ】自分用のメモの意味で書いていて、とても長いです。

昨日見た日曜美術館のアートシーンがとても面白かった。

堀文子さんっていう2019年に亡くなった日本画家のことをやっていた。自然を描きまくった日本画家らしい。

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東京で生まれ、東京で活動してた堀さんは、49歳の頃大磯にアトリエを構えた。大磯に来て3年後、一枚の絵が生まれたそうだ。

秋の草花を焚火の炎で燃やす「秋炎(しゅうえん)」咲いたままの菊の花がくべられている↓

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        堀文子《秋炎》(韮崎大村美術館蔵)


花を焼く事で、堀さんはそれまでの自分に別れを告げたそうだ。

以下は「秋炎」についての堀さんの言葉。

堀「なんかもやもやした、青年時代なり…ある時代?若さを断ち切りたかった。ある時若さを焼いたの

檀ふみ(インタビュアー)「若さを断ち切りたかったってどういう事?」

堀「やっぱりね、若さの未熟が嫌で、それを焼き切ってしまおうと思った感じはあります。

「若さの未熟が嫌で、それを焼き切ってしまおうと思った…」この言葉が何か響く。今自分は若くなくなってきて、若さの未熟という事をすごく感じるし、数年後には今の自分も若さの未熟の真っ盛りだなと感じるのかもしれない。

若いときは無謀に様々な事に挑戦できるように思う。若さは素晴らしい。

しかしまた、若さは驕りにも転じる。それは若い自分を誇って、そうでない者を貶めたり、感謝を持たなくなることがあるからだ。若さは傲慢さと裏表である。というか、その中にいたら気づけないような形の傲慢さなのだ。しかし、人は意識しないと、いつまでもその若さの悦びの中に自分だけはまだ居ると思ってしまうのではないか。だから堀さんはそれを意図的に焼ききってしまおうと思ったのではないか。これは堀さんの決断だ。

堀さんは、自然の美しさの発見に帰っていく。世界中に旅を続け、今まで見たことのない自然の中に入っていき、自然をテーマに作品を描き続けた。

番組の中でインタビュアーの檀ふみさんが堀さんの自宅に行くのだけれど、その自宅で堀さんは檀に蜘蛛の巣を見せる。堀さんが蜘蛛の巣に霧吹きで、水を吹きかけるとそこには美しい模様が見えてきた。

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堀「きれいでしょう、この細い、精密な、これを私はお目にかけたいとおもって」堀は、自分の絵ではなく、客人に蜘蛛の巣の美しさを熱心に語る。

堀「この精密な細かさ見て下さい。こんなの誰が出来ますか?どんな人間にもできないでしょう。ほら、この美しさ。蜘蛛の巣をこんなに美しくおもうのは、ある年齢に到達しないと…。それまでは人間に何かあるような気がしているじゃありませんか人は…。遥かに偉いのはこれだって。はっきりするのには時間がかかりましたね。

若さを焼き切る。その言葉の意味が分かった気がした。堀の若さを焼き切るという言葉は、自然の不思議の発見、そして自然への畏敬の念のようなものにつながっている気がした。若い頃は、人間は大したものだと思って、人間の世界に何か立派なものがあるように思っている。しかし、そのときは自然の凄さが見えないと堀は言う。ある意味で若さの中で、人間だけの喜びの中で舞い踊っているのだろう。それは良いとか悪いではなくて、それが若さの必然なのかもしれない。しかし、そこに居続けるだけでは見えてこないものもある。

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晩年の堀さんがよく描いたのが「落ち葉」だという。

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           「華やぐ終焉」(堀文子)


木は冬の寒さに備え、自らの力で葉を落とすという。そのために葉の付け根に壁を造り、栄養を遮断する。このときはの内部で化学反応が起き、緑の葉が赤や黄色に変わるのだ。

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堀の文章:「命をつなぐために、無駄な努力を省く神の決断は完璧だ。そして死を命じられた葉が落ちる時の、あの絢爛たる潔さはどうだ。先を争って地に帰っていく、落ち葉の美しさはたとえようもない。傷一つない幸せだったもの。患ったもの。虫に食われ穴だらけのもの。神はどの葉にも隔てなく、その生きた姿を褒めたたえ、美しい装いを与えて終焉を飾って下さるのだ。

これも深い、自然の差別のない姿の中に、人間のちっぽけさを堀さんは見ているのではないか。

檀ふみ「堀さんの絵ってなんかその、お歳を重ねるにしたがって、華やかになっているような」

堀「そうかしら。はらはらしたり、ドキドキしたりすることを、あの続けないとすぐあの良い気になって、あのね、同じ平面に乗っかてしまいますから。私、5㎜でもいいから、登りながら死にたいです。どうしても、皆さんに誉めて頂くと、少しいい気になって、こうなっちゃいますから、なるべく。ありがたいけどね、そこを立ち去ってまた険しい所へ、よじのぼるように。だけど今は足も悪くなりましたので、そういう形ではできませんけれども。あの、今まで描かなかったものを、震えながら描いてみたいと思います。」

ここで、堀は最後まで登りながら死にたいと言っている。これは一見「死ぬまで、成長したい」ということかと思える。しかし何か違うように思う。方向性が違う。堀は「険しい所によじ登りたい」と言っている。

これは何か自然の中に帰るとでも言おうか、自然の人間の姿・命の姿にに帰るという方向性にも思える。登りながら死ぬというのは、最後までエゴと欲望をたぎらせて人間の横暴を尽くして行くという方向性の努力ではないのだろう。

自然の一部であるという意識を持ちながら堀さんは描き続けているように感じた。その姿勢が美しいと思った。

その後も堀さんは書き続け2019年100歳で亡くなった。

堀さん、めちゃくちゃカッコ良かった。このアートシーンは今週の日曜日まで観れるので、よかったら観てみて下さい。


堀文子の展覧会が9月20日まで名都美術館で開かれている。


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